ノーベル文学賞作家 カズオ・イシグロのデビュー作
カズオ・イシグロといえば、翻訳小説が好きな方なら、誰でも反応するほど有名な作家だと思う。日本の長崎で生まれ、5歳のときに、父親の仕事の都合で、イギリスに移住。その後1989年まで日本の土を踏むことはなく、出版した作品の全てが英語で書かれている。同年、長編小説『日の名残り』でイギリス最高の文学賞と言われるブッカー賞を受賞。2017年には、ノーベル文学賞を受賞している。
『遠い山なみの光』は、そんなカズオ・イシグロのデビュー作で『女たちの遠い夏』の改題でもある。
カズオ・イシグロの作品は「信用できない語り手」という手法を用いることが多い。
信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、英語: Unreliable narrator)は、小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手(ナレーター、語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりするものである。
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視点は主人公なのだが、その主人公の記憶が度々歪んでいて、読者を欺くのだ。ミステリー作品ではない。だからこそ、人間らしさが溢れていて、不気味さと、ある種のリアリティをもった作品になる。
一度心を掴まれたら、もう逃げられない。
この処女作からすでにカズオ・イシグロ文学の特徴といえるようなものがいくつも現れている。
遠い山並みの光
長崎出身で、イギリスに住む悦子の元へ、ロンドンから娘のニキが訪ねてくるところから物語は始まる。悦子からニキヘ語られる、長崎時代の思い出。そこに住んでいたときに出逢った、不思議な親子、佐知子と万里子の話。どうやら、悦子は長崎に住んでいたころ、夫と離婚したらしい。そして、前夫との娘、長女の景子は自殺したらしい。
ここに、〝どうやら〟がつくのは、どうして景子は自殺したのか。前夫と何があって離婚したのか。どうしてイギリスに渡ったのか。その説明が何も書かれていないからだ。
現在の悦子の生活と、過去の長崎での生活が交互に語られる場面が印象的で、長崎にいたころに出逢った佐知子は、母親であり、男に振り回される女性でもあった。そして万里子は、そんな母親に振り回されながらも、何かの幻影に怯えながらも、必死に生きている小さな女の子だ。
深く読めば読むほど、悦子と佐知子、万里子と景子が、鏡のように重なるようで、それでいて、本当に実在するのか。悦子の妄想なんじゃないのかとさえ思ってしまうくらい不明瞭な存在で、この作品の不気味さが増していく。
もしかしたら、本当に悦子の妄想なのかもしれない。現在、心が落ち着いている悦子と、長崎にいたときに必死に幸せを掴もうとしていた、過去の悦子(佐知子)との心の対話なのかもしれない。
行方不明になった万里子を、探しに行ったときに、悦子のサンダルに引っ掛かった縄。
最初の記載にあった、景子の自殺は縊死だったという記載。縊死とは、首吊り自殺と言うことだ。
そこが繋がったときには、もはやホラー作品のようにも感じたが、サンダルに引っ掛けるくらい、歩いている足元に絡まるくらい、自責の念を感じていて、それを取ることで、少しは前を向けたということなのだろうか。
古い考え方に固執していた前夫の父親、緒形さん。亭主関白で保守的な考え方の元夫。不安定ながらも、新しい幸せを求めた悦子。
それぞれが、自分たちの人生を懸命に生きていて、懸命に生きているからこそ、他人のことまで考えられなくなってしまうことがある。
カズオ・イシグロの文学的特徴をもう一つ挙げるとしたら、会話文だ。
登場人物の会話が妙に噛み合っていないのだ。どうにもこうにも、ちくはぐな会話文からは、それぞれのすれ違いが見えて、それが滑稽でもありながら、とてもリアルだ。
しばりがなくなってしまった一方で、選択の責任や、自由の重さを感じることもある。悦子にとっては、それが、景子の自殺だったのかもしれない。
読了後、改めてタイトルを見てみる。『遠い山なみの光』。
これは遠い、幸せと言うことなのか。自分の幸せを求めた悦子にとっては、もう本当の幸せは遠すぎると言う皮肉なのか。
解釈の余白が残されたこの作品を、皆さんはどう解釈するのだろう。懸命に生きて、ふと、人生を振り返ったときに、何かを失ったような気がすることがある。そんなときに、ぜひ、読んで頂きたい。きっと救われるはずだから。
文:紫吹はる
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