酒を飲んだら旨い、殴られたら痛い
チャールズ・ブコウスキーほどロックを感じる小説家もそうはいないだろう。
酒が好きで、女が好きで、カリスマ性があって、どこか脆い……。
ブコウスキーを読んでいると、生きるってしんどいことだよなぁ。くだらないことだよなぁ。仕事行きたくないよなぁ。酒飲みたいよなぁ。という気持ちが起こってきて、「でも、どうでもいいか」といういくぶん捨て鉢な、だけど清々しく、ゆえにリアルな気持ちになっていく。
リアルであること、これがブコウスキーの強みだ。文章はスカスカで、シンプル。ブコウスキーの小説を読んでいると、酒を飲むシーンでは、酒が旨そうに見えるし、殴られたら痛い、と思う。あまりそれ以上の意味がなさそうで、それが文学っぽくなくていい。
ブコウスキーの小説にはワインがよく出てくる。そのワインは何かを象徴しているわけではない。ワインはただの酒だ。競馬場の馬はただの競馬場の馬だし、メシは腹を膨らますためだけのメシでしかない。こう書くと当たり前のことなんだけど、文学というのはストーリーの中でさりげなく様々な事象に意味を持たせたりする。例えば、「彼女の肩に蛾がとまった」と書いてある文章があったら、蛾は再生の象徴だからここが物語のターニングポイントになったんだとか(蛾が再生の象徴かどうかはテキトーに言ってるからわかんないですよ!)、言われたりする。これが、ブコウスキーの場合だったら「おい、ベイビー。お前の肩に蛾がとまってるぜ」「蛾なんてわけないわよ」「でも、蛾だぜ。ほらなんか毒でもあるんじゃないのか。いやじゃないの?」女は蛾を叩き潰した。俺はビールを飲んだ。旨かった。ぐらいの感じになりそうな気がする。
普通の小説だったら、なにか伝えたいテーマだったり、仕掛けだったり、テクニックだったりがあるものな気がするんだけど、ブコウスキーの場合はそういうギミック的なものはあまり感じない。率直に書いている(ように見える)。もちろん、ただダラダラ書いているだけでは小説にならないはずだから(ですよね?)、ブコウスキー的なテクニックを用いて執筆しているんだろうけど、いわゆる文学作品に比べてそういうギミックは希薄にみえる。なのに小説として面白い。そこがブコウスキーの凄いところなんだろうな。
悪文に捧ぐ ブコウスキー遺作『パルプ』
ブコウスキーの遺作『パルプ』は、一応探偵小説ということになっている。主人公の探偵ニック・ビレーンは、あんまり熱心に仕事に取り組まず、競馬場に行ったり、バーでダラダラ酒を飲んだりしている。推理とかサスペンス感はほとんどない。
ニック・ビレーンのもとには探偵の依頼が時々入ってきて、その時は「俺はLAナンバーワンのスーパー探偵だぜ」とか言ってちょこちょこ調査っぽいことはするんだけど、その情熱も長く続かずに競馬に行ったり、酒を飲んだりする。
登場人物もぶっ飛んでいて、死神、宇宙人、『夜の果てへの旅』の作者ルイ・フェルディナン・セリーヌ……。
ニック・ビレーンは、依頼された案件をダラダラと解決したり、解決しなかったり、勝手に解決していたり、とにかく物語はダラダラ進行する。このダラダラ感が魅力的で屋外のコンサートで熟練のロックバンドの長いジャムセッションを聴いているような感じがする。ダルいな、と思ったりもするんだけど心地よいし、不思議と読んでいられる。例えばこんな文章。
俺は、空いてるテーブルに席を取った。ウェートレスが来た。なんだか馬鹿みたいな恰好をしている。ピンクのジャンプスーツ。コットンが胸を押し上げている。ウェートレスはぞっとするような笑みを浮かべて、金歯を一本見せた。目はまるっきりカラッポ。
「なんにする、ハニー?」耳ざわりな声。
「ビール二本。グラスは要らん」
「二本なの、ハニー?」
「ああ」
「銘柄は?」
「なんか中国産のやつ」
「中国産?」
「中国産ビール二本。グラスは要らん」
「ひとつ訊いてもいい?」
「いいとも」
「そのビール、二本とも飲むのよね?」
「そうしたいと思ってる」
「じゃあまず一本飲んでから、もう一本注文したら? そうすればぬるくならないわ」
「二本いっぺんに頼みたいんだよ。たぶん何か理由があるんだろうけど」
チャールズ・ブコウスキー 『パルプ』 柴田元幸訳 ちくま文庫 p-238~p239
この後、「なんで二本同時に頼むのか」問題で揉めて店長っぽい人物が出てくる。
汚い白のエプロンをかけた大男が寄ってきた。
「ベティ、どうかしたのか?」
「この人、中国産ビール二本欲しいんだって。グラスはなしで」
「たぶん友だちでも待ってるんだろ」
「この人友だちなんかいないわよ、ブリンキー」
ブリンキーは俺の顔を見た。こいつもまたデブの大男だ。ていうか、デブの大男二人分。
「あんた、友だちいないの?」ブリンキーが俺に訊いた。
「いない」俺は答えた。
「じゃあ中国産ビール二本とってどうすんの?」
「飲むんだよ」
「じゃあ一本とって、飲み終えてからもう一本とったら?」
「二本いっぺんに頼みたいんだよ」
「聞いたことないぜ、そんなの」ブリンキーが言った。
「どうしてだめなんだ? 法律違反なのか?」
「いや、たださ、ちょっと不思議だったから」
「あたし言ってやったのよ、精神科医に看てもらいなって」ベティが言った。
チャールズ・ブコウスキー 『パルプ』 柴田元幸訳 ちくま文庫 p-240~p241
そして、また揉めて、最終的に中国産ビールを三本持ってこさせることになる。(笑)
なんなんだろう。この感じ。何が面白いの? と聞かれたら答えられないんだけど、めちゃくちゃ面白い。なんでこんなこと書くんだろう、と思わないでもないけど、ずっと読んでいられる。
作家の高橋源一郎は、柴田元幸訳の『パルプ』が90年代最高の名訳と言っていて、作品内容についても現実離れしているんだけど、読んでいると現実っぽいような気がしてくる。と言っている。
なるほど。。『パルプ』が面白いのは、柴田元幸の技があるから、というのも理由としてあるんだな。
そして、ブコウスキーの小説は「リアル」といっても現実には絶対に起こりえないことを書いていて、それなのに読者は「リアル」を感じるんだもの、凄いよね。
さて、この小説『パルプ』は「悪文」に捧げられている。「名分」ではなくて「悪文」。
『パルプ』――安価な木材パルプを使った大衆向けの三文雑誌のことなんだけど、遺作のタイトルにこれをつけるってのが、面白い。文学をコケにしているようにも見えるし、ブコウスキーの信念を感じるような気もする……。
まあ、難しいことを考えずに読んでみよう! 教養やためになることはないけれど、これを読んだ後は人生がちょっとだけどうでもよくなって見えるはず(それがいいかどうかは別として)!

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