小説 『海の近く』 IKU

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海の近く

私は例えば芝居で言うところの「黒衣」だった。そして願わくばずっと黒衣でいたいと思っていた。

元来人見知りだし、表に出るより縁の下の力持ちを引き受ける方が性に合っていた。

長く続けた仕事も、プロジェクト毎に最適なメンバーを集め、其々に仕事を任せ、進捗状況を把握するのが主な役割だったし、それは自分に合っていて、メンバーに気持ちよく仕事をしてもらう環境を整えるのは得意だと自負していたのだ。

家庭でも娘たちが普段の生活や、学校で気持ち良く過ごせるよう過不足なくサポートして、けっして前に出過ぎないように心がける。

夫に対しては。彼は私と正反対な人で、社交的で誰とでも穏やかに仲良く出来る人なので、外向きの事は全て彼に任せておけば良かったし、外出好きな彼が計画を立てて旅行し、外食していれば良かった。彼がひとりで登山に出掛ける時は私は大人しく部屋に籠もって好きなだけ本を読んでいれば良かった。

何もかも上手くいっている。

私は上手くやっている。そう思っていた。

娘たちも其々独立し、彼も定年を迎え後は穏やかに静かな暮らしが続く。そう思っていた。

だけど。ある日突然彼が外に向かって開いていた扉を全部閉めてしまったのだ。

唐突に、前ぶれもなく。パタン。

ただただ悲壮な顔をしてベッドに潜り込む。

何が起きたのか全く理解出来なかった。

何をすれば良いのか全く分からなかった。

とりあえず自分の仕事をセーブする。

とりあえず何処へも行けなくなった彼の食事を三食作る。

とりあえず彼に任せていた確定申告をする。

そしてふと気がつく。彼を病院に連れて行かなくちゃ。

最初に行った病院でもっと大きな病院に紹介状を書きましょうと言われた。

紹介状を持って訪ねた病院は彼には合わず、更に症状が悪化した。次の病院を探した。

当時住んでいた場所からは遠く、通いにくい場所だった。

環境を変えよう。海の近くに住もう。

理由もなくそう決めた。

ひとりで家を売り、ひとりで家を探して購入。ひとりで引っ越しの手配と手続きをした。

もう黒衣ではいられなくなっていた。

黒衣でいたかった私は面倒なことを彼に押し付けていただけだったのかも知れない。仕事に対しても娘たちに対しても、自分が気持ち良くいられることを最優先していただけかも知れない。色々な感情が波のように押し寄せて足元の砂をさらっていくようだった。

その場に立っていられないくらいに。

世間でよくある話でも、自分に降りかかると簡単に悲劇のヒロインになれた。笑わせてくれるわ、私。流されてる場合じゃないわ、私。

それから。

少しずつ回復してきた彼と毎日海まで散歩する。少しずつ会話する。少しずつ以前の彼に戻っていく。少しずつ何事もなかったように。だけど、長く長く一緒にいても知らなかった彼もそこにはいた。

もしかしたら。彼も今までとは違う私を見ているのかも知れない。

海は深くて、眩しくて、その全てを見通すことは出来ないけど、そろそろと波打ち際を歩く。足をすくわれそうになりながら。別に上手く歩けなくてもいいんだ。

海の近くで三度目の春が来る。

IKU

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