私が大江健三郎の本を読むようになったのは父の影響だ。でもそれは親子愛でも美談でもない。
私は本棚に大江の本をずらりと並べて悦に入る父が大嫌いだった。自分は大江を読んでいる。理解している。お前らに大江は分かるまい。
思春期の私にとってそんな父の姿は胡散臭く見えた。そんな父が何を読んでいるのか知りたかった。
大江を読んで理解して、父に何か言ってやりたい。今思えば、顔から火が出るほど幼く恥ずかしい動機だった。
中学生の私に理解出来る内容ではなかった。
読んでいく順番も分からなかった。意地だけで意味の分からない文字を追っていった。
高校生になってようやく朧気に少しづつ意味の分かる文章や理解出来る考え方に触れられたような気がした。少しづつ大江の背景や考え方の一端を知るようになっていった。
大江はいつも過激なまでに対立する多くの他者を描いていた。彼らは皆、会話や議論を惜しまなかった。彼らの中には苛烈な結末を迎える者もいたけれど、そんな姿を淡々と描いていた。
小説とは嘘を書きながら本当を織り交ぜて、嘘に力を与えて真実を描くものだと登場人物に語らせていた。詩の深さについて繰り返し繰り返し語り、読み直す事の重要性を示していた。
他者を知れ。
父を否定する私に大江はそう語っているような気がした。
私の考えは私が神のように産み出したものではない。あらゆる他者から受け取ったもの、その上で育った想像力ではないのか?
父もまた他者なのだ。父は父のやり方で娘に何かを伝えようとしていたのだ。
父も大江も亡くなった今、大江の遺した言葉を通じて父との対話を続けていく。

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