小説 『うたかた』 小日向ジュンコ

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うたかた

「さいごを 撮って ほしい」
かすかに開いたくちびるから、そう聞こえた。

音もなく滑り込んだ桜の花弁のように儚く、間違えて春に舞う雪の一片のように頼りなく、そして透けるような白い肌に似合わぬ黒く深い瞳は、薄い哀しみを見せているようだった。
不意に、木造の校舎の磨りガラスは、水拭きをしすぎるとスリがなくなるからだめだと冷たく注意する担任だった女の顔を思い出した。拭きすぎたガラスのような肌だ、と思ったからだ。

ぼくは、曽祖父から続く写真館を一人で営んでいるが、そろそろ店を畳んだ方がいいのではと考えることが多くなっていた。家族で記念撮影をするという習慣も、子供が生まれた時と七五三くらいになり、それもやがて大型商業施設にあるチェーン店に客は流れていった。昔ながらの客も、代替わりをして付き合いがなくなったし、企業パンフレットの撮影などの仕事もないではなかったが、不安定なことには変わりなく、そろそろ仕事の形態も変えないとなと思っていた矢先に、専属カメラマンの仕事が舞い込んだというわけだ。何か次へのステップにもなるかもしれない。

先方からの報酬は申し分ない。こちらには時間は余るほどある。家賃がかからないとはいえ、支払うべきものはあるのだ。とある山間部の、湖の見えるコテージにカメラだけ持って来てくれればよい、と食事と寝床と報酬付きの提案を断る理由もなく、彼女の残りの時間に付き合う覚悟は簡単に出来上がった。

電車を乗り継ぎ、無人の駅を降りる。古い型のセダンの横に立つ、老人と呼んでも差し支えない男が、私に会釈した。名を名乗るとお待ちしておりました、と静かに囁いた。

「おつかれでしょう」
話し方と同じく、山道をゆくドライビングも静かで安定していた。うすく開けた窓からの風が心地よく、少し眠ってもいいだろうかなど考えていたのが見えたかのようなタイミングだった。
あ、いや、などと口の中で転がったような、ただ音が漏れただけのような返答に、もうすぐですからとバックミラー越しに薄く微笑んだ。

コテージは古いもののようだが、手入れはされている。だが、人の気配が感じられない。不気味なのではなく、ただ、乾いた空気を感じただけ、だった。

壁一面に掛けられた人物の写真を見入る。どういう関連性があるのか、一見してわからない。年齢も顔貌もまちまちで、親族のようには見えなかった。唯一共通するのは、撮ったのは素人ではなさそうだ、というくらい。同じ人物の写真が複数枚あったり、一枚だけだったり、飾られた年代もバラバラのようだった。そしてその中に、依頼人の写真はなかった。きっと、これからぼくが撮る写真がここに加わるのだろう。

ぼくの部屋は階段を上がってすぐの、廊下の手前の部屋で、窓から湖が見えた。想像よりも大きな湖で、元々あったものを人工的に広げたものではあるらしいが、湖畔の半分は山に囲まれ、太古の昔から存在したかのような趣き。庭から桟橋が突き出ている。

夕食まで時間があるので湖を見に外へ出た。桟橋の先に腰掛け、寝転んでみる。見えない風と、音のない水の気配。海抜は高いはずなのに空は遠く、自分の住む町の空の色とは違っていた。
視界の端にコテージの二階部分が入る。端の部屋、つまり廊下の突き当たりの部屋の窓のカーテンが揺れているのが見えた。きっと彼女の部屋なのだろう。

水の跳ねる音がして慌てて身体を起こす。魚が一瞬だけ湖を脱ぎ捨てた細やかな音、小さなあぶく。ゆるやかな波紋。

彼女のさいご。
掬うようにぼくは、彼女のうたかたの日々を撮ってあげよう。

そう、思っていた。

小日向ジュンコ

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