小説 『夏の午後、想う季節と昼下がりのシャーベット』 深墨けいく 

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夏の午後、想う季節と昼下がりのシャーベット

冬生まれだと言うと必ずこう言われた。「確かに、冬生まれっぽいね」と。

だけど私は幼い頃から、冬はとてもつまらない季節だと思っていたので、そう言われるのはあまり好きじゃなかった。

確かに、私は明るくて朗らかな性格ではないし、積極的で華やかなタイプでもない。どちらかと言えば地味なほうだし、それだのになんとなく冷たい感じがするとも言われる。褒め言葉として「大人っぽい」と言われれば、それはそれで嬉しいと思うけれど、ツンとしている生意気な奴だと思われているように感じないことも無いわけではなかった。実際にそうした意味を含んで言っている人もいたことは事実なので、そういったイメージと重ね合わせて、何かにつけて「冬っぽい」とか「冬が似合う」と言われるのが、正直あまり好きじゃなかった。

冬は春みたいに色とりどりの世界じゃない。白と黒のモノクロの世界。食べ物だって枯渇する。生き物の命が削られる季節。それが冬だと思っていた。

それに、私の部屋の窓からは庭に植えられた椿が見えた。冬になるたびに雪を被って咲くそれを美しいとは思いつつ、ぽとりと首を落とすように大輪の赤い花を散らす姿はどうしたって不吉な何かを子供心にも連想させた。

ある夏の昼下がりの事だった。

偶然入ったカフェ(赤いラインが特徴的なこぢんまりとしたかわいらしい店だった)。そこで『柿のシャーベット』と書かれたメニューを見つけた。

その日はあまりにも暑い日で、買い物からの帰り道、休憩ついでにアイスコーヒーでも飲んで涼もうと思い、気まぐれに入ったカフェだった。そこで見かけた『柿のシャーベット』なる氷菓。生まれて初めて見たメニューは大層珍しいものとして私の目に飛び込んできた。シャーベットと柿という組み合わせが意外過ぎて、「本当に合うのか?」と疑い半分面白半分に、その絶妙なミスマッチ感に思わずぐいと心をひかれた。

そういえば、と私は思った。小さい頃から果物は大好きだったが、柿だけはあまり好きじゃなかった。「渋い」感じが苦手だったし、食べた時の食感もどう表現して良いか分からなくて、子どもの頃は柿を食べて「おいしい」と感じたことはなかった。

しかし、大人になった今(私はもう39 歳だ)、特にここ数年、私は好んで柿を食べるようになっていた。不思議なものだなあとしみじみ思う年齢とともに味覚は変わるというものの、柿を食べて「おいしい」と感じるようになった自分には、正直驚いた。そして「わたしも歳をとったんだな」と、ありふれた主観に基づく事実を実感せずにはいられなかった。

果物にイメージがあるとすれば、柿のそれは老人である。なんとなく。「柿= おばあちゃんの果物」みたいな、そんな感じである。だからその日、いかにも若者好みのおしゃれな雰囲気のするカフェで『柿』の文字を見つたこと、それ自体が私の中で小さな驚きであった。自分の持つ柿へのイメージとカフェやシャーベットというものへのイメージとの間に生じたギャップに、少しならずとも面食らったと言ってもよい。そこからしゅぽしゅぽと好奇心が湧き起こり、考える前に勢いまかせに、目的のアイスコーヒーと合わせて一緒にそれを頼んだというのが、本当のところだった。

そのカフェにいたのは店員さんが一人と、大学生風の若い男女のカップルだけだった。彼らは私の座ったふたつ隣のテーブル席で何やら楽しそうに会話をしていた。小さなお店だったので、所々で会話の内容が聞こえそうな感じがして(もちろんそんなことはないのだけれど)、それがどことなく気恥ずかしかった。店員さんは特別愛想が良いわけではないけれど、てきぱきしていて気持ちが良い。初めていくお店だったこともあり、私は注文の勝手が分からずに、どう声をかけようかしらと少しだけ迷っていた。

すると、不意に柔らかさを含んだ、高いけれど落ち着きのある声色で「ご注文はこちらのカウンターからお願いしますね」と、店員さんはさりげなく教えてくれた。押し付けがましくないその言い方は、品の良い感じがしてそれがとても良いなと思った。

注文してしばらく待っているとテーブルにアイスコーヒーとお待ちかねの柿のシャーベットが運ばれてきた。それらは、プラスチックで出来た小さな白いシンプルなトレーに載っていた。丁寧で清潔で、少しだけ頑固で生真面目そうなトレーに乗ったコーヒー

と氷菓の姿は、素直にとても素敵だなと感じられるものだった。一緒に常温の水も添えられていたので、ひとまず私はそれを飲み、一息ついた。

そして、ようやく柿のシャーベットである。

どんなものかと内心気持ちをはやらせながら、口に含んだ淡く茶色みがかった橙色をしたその氷菓は驚くほど爽やかで甘かった。

柿に爽やかさを感じた事なんて今まで一度も無かったから、本当に驚いた。好き好んで食べるようになってからの事も含めてだ。シャーベットになったからこんなにも爽やかなのか、将又、柿自体がなにか特別な品種を使っているのか、その辺りはよくわからないけれど、おいしいことには変わりない。本来の目的だったアイスコーヒーの事を忘れるほどの美味しさと、そこへ暑さのせいも相まって、私はいっぺんにその柿のシャーベットを食べきった。あまりのおいしさに、ものすごいスピードで平らげたと思う。食べきってしまった後になって、「もうちょっとゆっくり味わって食べればよかった」などと思い、もう一つ同じものを頼もうかとそんな考えが頭をよぎったが、ひとまずアイスコーヒーを口に含んで、一息ついた。おかげで「おなじものをもう一つ」などという、食いしん坊な考えは頭の中に留めておくのみに成功させることが出来た。

柿のシャーベットを食べ終わってしばらくの時間、アイスコーヒーを飲みながらぼんやりと過ごす。町の片隅にあるこのカフェは、通りから一つ逸れた小路に面している。

窓から見えるその景色は、まごうことなく「昼下がり」特有の緩やかさと心地の良い気怠さを含んでいた。そのせいだろうか。私の思考も緩慢になり、あれやこれやと答えを辿ることもなく、思考の一人遊びをしていた最中、ふと「冬生まれのアレコレ」についても思いを馳せた。何ともなしに去来する思いが現れては消えてゆく、そんな取り留めのない思考の浮遊を持て余していたところに、柿のシャーベットがあまりにも爽やかなトリガーになったようだ。その「意外性」や「固定観念の転換」に、思わず自分が持つ「冬」とか「冬生まれ」とかいうイメージも、違う側面から見れば又違った印象へと変化するのではかという、至極当たりまえのことに気がついた。寒いからこそ感じることのできる温かさや柔らかさ。ほっとする光や誰かのぬくもり。冬だけが持つ優しさ。

「そうでしょう?」と、心の中で私はわたしに問いかけた。

冬になると家の中は暖かい。外の寒さが、暖かさを何よりも尊いものにしてくれる。冬の日に外から室内へと入った時の、思わず「ほっ」とするその瞬間には何物にも代えがたい安心感のようなものがある。それに冬になると、誰かのことが恋しくなる。自然の色がなくなると、人は一生懸命自分たちで色をつくろうとする。冬のイルミネーションは格別で、そしてそれを誰かと一緒に見たくなる。普段は一人が好きなのに、こんなふうに誰かと一緒にいたいと願い、その優しさや儚さや美しさを誰かと分け合いたくなるのは決まって冬だ。

そんなことを考えながら、いつのまにか私はアイスコーヒーを飲み終えていた。飲み終わったことに気付かずに、最後の滴をストローで躊躇なく啜ってしまったものだから、ズズズッと、物凄く大きな音を立ててしまった。その音の大きさと恥ずかしさから、こっそりあたりを見回したけれど、誰も気にしていないみたいでほっとして、私だけがちょっぴり笑った。まだ夏なのに、冬のことを一生懸命考えて、食べているのは、

秋の果物。そんなちぐはぐな物事たちが、更にまたまた可笑しくて、もう一度だけ微笑んだ。

「あ」と不意に声が出た。「春が足りない」と、思ったからだ。家に帰る途中にあるお花屋さんで、とびきりカラフルなお花を買って帰ろうと決めた。全部の季節がいっぺんに押し寄せてきた世界の景色を想像してみると、それはそれで愉快なのだろうと思ったが、あまりにもガチャガチャしていそうで、その煩さにはちょっと遠慮したいとも思ってしまう。そんなあり得ない想像(妄想?)に、再びひとり笑いが吹き出しそうになったので、誤魔化そうと慌てて店員さんに目配せをして、お会計をお願いした。

「ありがとうございました」と、淡々と仕事をこなす店員さんの目元は柔らかかった。

その声は深い緑の似合う、とても優しいハープみたいな心地の良い音だった。

扉を開けるとチリンと音がした。店を出て、扉を閉めるときも、またチリンと音がした。

このカフェに入った時も、きっと同じ音が鳴っていたのだろうけれど、その時私はその音には気が付かなかった。

穏やかな時間が流れる心地のよい昼下がり。偶然見つけた街角にあるこのカフェで食べた「柿のシャーベット」とアイスコーヒー、そして出るときに耳にした「チリン」というその音は、どれもとても涼しげで爽やかで、夏特有の埃っぽさを洗い流してくれる雨上がりみたいに清らかだった。その清らかな心地よさは、扉の外の夏日の熱射と私の心を、少しだけ、だけれど十分に和らげてくれたのだった。

深墨けいく

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