小説 『万華鏡』 ヒラノケイゾウ

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『万華鏡』①

 リビングでトーストを噛りながら斜め読みをしていた朝刊の小さな記事に目が止まる。
 中堅の出版社が主催する文芸の新人賞の結果を知らせる、その記事の中にかすかに記憶に残る名前があった。
 ふいに彼女と交わしたいくつかの言葉が蘇る。忘れようと願って見事に忘れてそのまま何事もなかったように今日まで生きてきた自分の欺瞞が一瞬で暴かれたような、そんな気がした。
「美保さん」
 心の中で小さく呟き、キッチンで息子たちの弁当を用意している暁子の方をちらりと見てから、再び新聞の記事に目を落とす。
「実はあなたのことを知ってて、あなたが日下部恵一だって分かって声をかけたの」
 あの日、美保さんがそう言って打ち明けてくれたときの、悪戯っぽく笑う顔を思い出して、俺は思わず顔をしかめた。


 俺は高円寺駅前の焼き鳥屋で、さっき出会ったばかりの女と向かい合って一緒にビールを飲んでいた。
 しゃべるのはもっぱら女の方で、俺が聞かされていたのは、彼女の「彼氏」だという、割りと名の知れたミュージシャンの愚痴だった。
 つい一時間前まで野外音楽堂でフィッシマンズのライブを観ていたんだよな、ということを思い出す。
 前の席で終始激しく踊っている女は確かに気にはなっていたが、ライブが終わるなり俺の方を振り返って「ねえ、今からどっかに飲みに行かない?」と誘ってきたことには少々、驚いた。無視しても良かったのだが、ちょうど誰かと飲みたい気分だったから、「高円寺あたりで良ければいいっすよ」と応じてしまった結果が今だ。

「昨日送っていただいた原稿なんですが」
 数時間前にもらった担当編集者からの電話の内容をぼんやり思い出しながら、女の愚痴を聞き流していた。
 担当編集者は長々と原稿をボツにした理由を話していたが、要は「読者はあなたの批評なんて求めていない」といったところだろう。
「ならば日下部恵一の名前で書くことに何の意味がある」という言葉を寸前で飲み込んだのは編集長の藤本さんの顔が浮かんだからだった。ここで我を通してまた先月のように彼を困らせるわけにはいかない。
 誌面のメインを飾る原稿を任されていた一年前が嘘のように、最近の俺に対する原稿依頼は目に見えて減っていた。理由は明らかで担当編集者と俺の間の価値観の相違だ。
 担当編集者と言っても実質は編集長のようなもので、俺をこれまで重用してくれてきた藤本さんは来年の定年を控えすでに編集長としての権限をほとんど与えられていなかった。
 自分でも子供じみた態度だと分かっていながら、俺はそんな現実を受け入れずにいた。認めてたまるか、と思いながら、担当編集者の意向からわざと外れた原稿を送り続けていたわけだから、どう考えても俺の自業自得だったはずだが、それすらも俺は認められずにいた。

「ねえ、ちょっと聞いてるの?」
 女が俺の顔を覗きこみ、次に俺のグラスが空になっていることに気がつくと、店員を呼んでビールを自分の分と一緒に二杯注文した。

「そんな奴ならさ、別れてしまえばいいじゃない」
 これ以上、自分も好きだったミュージシャンの悪口を聞きたくなくて、俺はそう言ったものの、この女はきっと別れないだろうなとも思った。見ず知らずの人間に別れようと思っている男の愚痴を聞かせる女なんているはずがない。
 女はすでに運ばれてきたばかりのビールをジョッキ半分くらいまで飲んでしまっていて、目付きも若干座っているように見えたが、口調はまだ確かでミュージシャンに対する愚痴はまだ続いていた。
 しかし、いい加減俺が飽々してきたことを表情から悟ったのか、女は急に悪戯っぽく笑うと「そんなことよりさ」と俺の顔を再び覗きこんでこう言った。
「あなた、音楽ライターの日下部恵一でしょ?」
 女が俺の名前を口にしたことが一瞬、理解できずに言葉を失った。
 俺は確かに音楽ライターの日下部恵一だが、見ず知らずの女が俺の顔を知ってるはずはなく、だから次に俺が感じたのは薄気味の悪さだった。
 しかし、女はそんなことには構わず、「実はあなたのことを知ってて、あなたが日下部恵一だって分かって声をかけたの」と可笑しそうに笑った。

 その後、三時間ほど飲んでから俺と彼女はそれぞれの家路についた。店を出た後で「今度はわたしの原稿、読んでね」と言われて電話番号を交換した。
 それが美保さんとの出会いだった。


 勤務先の中古レコード屋での店番をしながら、昨夜のことを思い出していた。

 美保さんは「あなたの文章を読んだときから、ずっとあなたのことが好きだった」と言って、俺のことを偶然見たというライター講座のことを話してくれた。
 それは数年前に恵比寿にある専門学校で行われたセミナーで、カリスマ的な人気をほこるロック雑誌の編集長と気鋭の若手音楽ライターの対談という形式で行われた。
 そこに俺が「気鋭の若手音楽ライター」として招かれた理由は、主催者である西山さんと俺が飲み友達だったからという以外に見当たらなかったが、対談相手の野嵜さんが俺の原稿をいくつか読んでくれていて「あの視点は僕にはまったくなくて感心しました」と妙にお世辞めいたことを言ってくれたおかげもあり、参加者の反応はますまずだったことを覚えていた。
 ライター志望だった美保さんも、尊敬しているという野嵜さんの講演を聞きたくて、そのライター講座に参加したのだという。
 告知の段階では対談相手である俺の名前はなく、だから当日、司会者が俺の名前を紹介すると、思わず耳を疑ったと笑った。
「この人があの日下部恵一なんだって、でも、そのときわたしは見ているだけだったから、今日、野音であなたが後ろの席に座ってるのに気づいたときからライヴ終わりに声をかけようって思ったの。これでも、すごく緊張したんだからね」
 彼女はそう言って、今度は弱々しく微笑んだ。
 相変わらず俺の中には薄気味の悪さは残っていたが、それでも彼女が何故俺のことを知っていたのかが分かって納得する気持ちも強かった。
 そして何より、俺の文章が好きだと語る彼女にどこか救われた思いでいる自分がいた。

 つくづく単純な男だとおかしくなって、それが表情に出ていたのか、その日同じシフトだった暁子に「なに、ひとりでニヤニヤしてんのよ」と言われて急いで口元を引き締めた。

 一週間後の休日、高円寺の駅前にあるカフェで美保さんと会った。暁子には仕事の打ち合わせだと説明した。

 あの日、高円寺の焼き鳥屋で俺の顔をどうして知っていたのかを聞いた後、ライター講座に参加したということはあなたも文章を書いているのかと訊ねた俺に、少し恥ずかしそうに頷いた美保さんは書きためている原稿がたくさんあるのだと話してくれた。
 軽い調子で、じゃあいつか読ませてくれと口にしたのは次に会う口実を探していたのかもしれない。

 そういうわけで彼女が書いているものに特段興味があるわけではなかった。だから高円寺のカフェで彼女から渡された原稿を読んだときには、そのあまりの達筆ぶりに驚いた。
 単純に俺はこの文章が好きだと思い、それをそのまま彼女に伝えた。
 これだけの文章を書けるなら、彼氏である例のミュージシャンに言えばいくらでも掲載してくれる雑誌はあるだろうにと思った。
 しかし美保さんは、彼には自分が文章を書いていることを内緒にしているのだと言う。コネを使いたくないってことかと訊ねる俺に、そんなんじゃないと少し拗ねたように答えた美保さんは「本当は別に恋人ってわけじゃないんだ」と言った。
 くだらないことを訊いたと思ったが、謝るのもおかしな気がして俺はそのまま黙っていた。
 俺の今のこの気持ちは同情なのだろうか見極めようとして、だいぶアルコールがまわっていることに気がついた。
 
 終電を逃したことに先に気がついたのは俺の方だった。友人の家までタクシーで行って泊めてもらうと言う美保さんに良かったら俺の部屋に泊まらないかと言うと、少し迷って「何もしない?」と訊いてくるものだからおかしくて笑った。
 俺の部屋まで自転車で向かう間、美保さんがふいに「サニーデイ・サービスで何の曲が一番好き?」と訊いてきた。
 俺が「『青春狂走曲』か『サマーソルジャー』」と答えると彼女は「わたしは『万華鏡』」と言った。
「あの曲、まるで日下部恵一の文章について歌ってるみたいじゃない?」
 そう言われて言葉に詰まった俺の頭の中で曽我部の歌声がリフレインする。

ほこり高い心はいつも天使のリズムの中で揺れてる
真っ暗な夜にふたりは出会って
素敵な瞬間の中にいる
ここは万華鏡の中 うつりゆく景色
嘘も本当も何もない世界

 俺の腰に腕をまわした美保さんが必要以上に密着しているように感じたがそれ以上のことは考えるのをやめた。

ヒラノケイゾウ


 

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