『万華鏡』②
美保さんと最後にふたりきりで会ったのは新大久保の寂れたホテルの一室だった。
新宿東口を出てすぐのジャズバーで久しぶりに会った美保さんは最近創刊された音楽雑誌を刊行している出版社の名前を挙げ「小説を書いてみないか」と打診されていると言った。
野嵜さんを講師に招いて新しく開講したライター養成学校に通い始めた美保さんは、野嵜さんが編集長を勤める音楽雑誌に記事が掲載されるようになっていた。熱狂的な読者を抱えるその音楽誌は編集部の人間にしか原稿を書かせないことで有名だったから、美保さんの記事が初めて掲載されたときは業界内ではちょっとした騒ぎになった。
野嵜さんとの関係を邪推する声もあったが、それでも彼女の確かな筆力は掲載を重ねるごとに少しずつ周囲の雑音を消していった。そんな中、彼女の文章に目を止めた出版社の編集者が小説の執筆を打診してきたというのが事の経緯のようだった。
美保さんはそれを受けるかどうするか迷っているようで「わたしに小説なんて書けるかな」と俺に訊いてきた。
「そんなことを他人に訊くな」と突き放すわけにもいかず、俺はしばらく考えて「書けるかどうかは俺には分からないけど、でも、俺は美保さんが書いた小説が読みたいよ」と答えた。本心だった。
美保さんは「そっか。ありがとう」と小さく頷いて、この話はおしまいとばかりに俺の近況を訊ねる。勤める中古レコード屋で最近導入した在庫管理システムの運用を軌道に乗せるプロジェクトのリーダーに任命されたこと、先週行ったナンバーガールのライヴに若干がっかりしたこと、原稿の依頼は相変わらず減ったままだというようなことをぽつりぽつりと話した。こんな話おもしろくねえだろと思ったが、他に話すような話題は持ち合わせていなかった。
バーを出て新宿駅へと歩いている道中、俺は美保さんの後ろ姿に向かって「ねえ」と呼びかけ、振り向いた彼女にこの後ホテルに行かないかと言った。
俺たちは終電を逃した彼女を泊めたあの夜に一度だけキスをしたきり、互いにそういう雰囲気になるのを避けてきた節があったから、俺が口にした誘い文句はずいぶんと唐突な響きを帯びていたはずだ。
だが、美保さんは少し驚いた顔でしばらく間を置いてから「こういうときに頷けないからわたしはダメなんだろうね」と呟いて俺の手を握ってきた。
そんな彼女がたまらなく愛しくて、同時にどうしようもなく疎ましいと思った。
新大久保まで歩きながら空室ありのホテルを適当に選んで入室した。受付の婆さんの皺だらけの手に代金を手渡した瞬間、俺は無性にどこか遠くへ逃げ出したくなった。
だからその数時間後、「気にしないで、こういう時もあるよ」と俺を慰めようとする美保さんに「そうじゃないんだ」と心の中で謝った。
翌朝、「またね」と手をふる美保さんを駅のホームで見送ってからリュックの中のPHSに暁子からの着信を知らせる通知がいくつもあったことを思い出して憂鬱になり、手帳を開いてその日は暁子とシフトがかぶっていないことを確かめてそのまま職場の中古レコード屋へと向かった。
俺は美保さんを置いて逃げ出すことを決めたが、そこから逃げてどこに行けばいいのかは自分でも分からなかった。
あれから一度だけ、下北沢の小さなクラブでDJをしていた夜に、男とふたりでいる美保さんと会ったことを思い出す。
男はライター講座で美保さんと一緒だった元クラスメイトで、一度俺も一緒に飲みに行ったことがあったから見覚えがあった。一向に連絡のつかない俺にひとりで会いにくるのは辛かったのだろうか、と考えて胸が痛んだが努めてなんでもない顔を装おったことを覚えている。
何をしにきたと冷たく突き放すわけでもなく、久しぶりだね元気?とばかりに手を上げた俺を美保さんは硬い表情のまま見つめ、男は何か言いたそうな顔で俺と彼女を見つめ、俺が曲間の繋ぎのためにターンテーブルに目を落としている間にふたりの姿はフロアから消えていた。
「ちょっと、何、呑気に新聞読んでんのよ。休みなのはあなただけなんだから、早く子供たちを起こしてきて」
暁子に急かされ2階へと上がる。息子たちが寝ている寝室に行く途中で納戸に立ち寄り、CDラックからサニーデイ・サービスの『LOVE ALBUM』を探しだしポケットにねじ込んだ。
息子たちを送りだし、仕事へ向かう暁子を見送り、『LOVE ALBUM』をCDプレイヤーに入れて四曲目の「万華鏡」を再生する。
オレは真夜中にやって来てあかりのついてない部屋の中へ
おまえはまるで月の子供のような瞳でこちらを見つめるよ
曽我部の歌声に懐かしさを覚えながらそのまま耳をすます。
オレの言葉は世界中の幻を集めた万華鏡さ
いつでも夕暮れを待ち焦がれて
宇宙のけむりのように宙を舞う
オレは真夜中にやって来て あかりのついてない部屋の中へ
おまえの心をそっと包んで幸せの向こうへ連れてってやろう
あの頃には印象に残らなかったパートに一瞬引っかかり、曲を巻き戻してもう一度聴く。
オレの言葉は世界中の幻を集めた万華鏡さ
いつでも夕暮れを待ち焦がれて
宇宙のけむりのように宙を舞う
ああ。そうか。「日下部恵一の文章みたい」というのはこの部分か。
今さらになって気がつく自分の間抜けさに可笑しくなった。
世界中の幻を集めた俺の言葉たちは誰かを幸せの向こうへと連れていったのだろうかと考えてそうだったらいいと願ってから「そんなわけはない」と思い直した。
幻を集めた言葉は幻でしかないということを今の俺は知っている。
曽我部の歌声があの頃よりも寂しそうに聴こえるのは気のせいか。
ここは万華鏡の中 うつりゆく景色
嘘も本当もなにもない世界
嘘も本当もなにもない世界
美保さん。
俺は今でもまだ万華鏡の中にいるのかもしれないよ。
そこはね、本当になにもない世界なんだ。
曲が終わると俺はプレイヤーの停止ボタンを押して、今朝妻から渡された買い物リストを財布に入れてから、近所のドラッグストアへ向かうために車に乗り込んだ。
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