小説 『北に向かって線を引く』 我妻許史 

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はじめに

去年(2023年)の夏、第58回北日本文学賞に応募した。この賞に応募するのは2回目で、前回は2次通過だった。今回は3次通過までいきたいぜ! と思っていたんだけど、結果は前回同様2次止まり。

悔しいといえば悔しいけど、まあ、いいかといえばまあいい。というのも、毎回素晴らしい人が受賞しているから。

受賞作は読んでいないんだけど、受賞インタビューを読むと「この人が受賞してくれて嬉しいな」と素直に思ってしまう。「いい賞だよなあ」とも思う。「世界は繋がっているんだよなあ」とも思う。

小説を書くことは面白い。一生遊べるなと思う。国も性別も年齢も超えて、孤独な魂が世界に放たれるあの感じ。自分という存在が溶けて、どうしてこんなものを書いたんだろう? と不思議に思うあの感じ。問いが問いを呼び、答えがどんどん沖に流されていくように感じたとき、小説っていいなと思う。

折れた音叉でチューニングしているような気分になるときもあるけれど、ときどき何かが共鳴することもあって、そんなときは小さな高揚感を覚えて、じんわりと腹の奥が熱くなったりする。空を見てきれいだと思うことができる。世界の端っこから世界の端っこへ。

そんな感じで、暇なときに読んでもらえたらとても嬉しい。

北に向かって線を引く

 人生がつまらなくなったのはいつからだろう? SNSのタイムラインに流れてくる右翼と左翼の罵り合いを眺めながら僕は考えた。
 十代の頃は息を吸っているだけで楽しかった。二十代はスタイリストのアシスタントという激務をこなしながら遊び歩くという生活で、金はなかったけど、刺激に満ちていた。三十代、どうやらこのあたりから雲行きがあやしくなった。
 交際していた恋人と結婚することになった僕は、スタイリストのキャリアを捨てて、輸入食品卸売会社で働き始めた。三十半ばを過ぎて初めて入った「会社」という組織は、奇妙で不可解に感じることが多かったけど、いわゆる安定があった。それは僕が今まで手にしたことがなかったものだった。
 スーツを着る、名刺を持つ、土日祝が休みで、ボーナスが出る。そんなものはくだらないことだと思っていたけど、人間にはどうやら所属の欲求があるらしく、人に対して世間並みの見え方を与えているという自覚は僕にとって甘い蜜だった。
 初めての正社員、初めての営業職で戸惑うことは多かったけど、気がついたら、この生活を手放したくないと思うようになっていた。
 妻が妊娠して、僕の昇格が決まった。人生のステージが変わっていくというタイミングでコロナがやってきた。それは吊り橋を落とす斧だった。海外から食品やワインの輸入ができなくなったことで会社の経営は傾き、瞬く間に倒産。妻は妊娠を機に仕事を辞めていたから、僕たちは一瞬で無職のカップルになった。未知のウィルスの一撃は僕たち夫婦をあっさり谷底に突き落とした。子どもが産まれたらマンションを買おうなんて話していたことが遠い夢となった。
 僕と妻は顔を合わせれば口論するようになり、それすらしなくなったとき終わりが来たことを悟った。妻は地元に帰り、僕は東京に残った。
 離婚した後、しばらくは失業保険と貯金で食っていけた。だけど、半年を過ぎると保険の受給は終わり、一年が経つころには貯金の底が尽きはじめていた。
 仕事はなかなか見つからなかった。十社以上応募したけど、結果はどれも不採用。目に見えないウィルスは脅威であり続けた。
 切羽詰まってきた僕はバイトでも派遣でもなんでもいいからと、片っ端から求人に応募をした。そして、なんとか派遣の仕事が見つかった。それはコロナ支援金の審査業務で、時給は千三百円。皮肉なことにコロナが生んだ仕事だった。
 仕事は楽だった。だからなのか、スタッフには老人が目立った。朝の八時から五時まで、パソコンのモニターを睨み、コロナのせいで被害を被った誰かのために受給資格があるかを審査する。誰かにとって僕たちは、幸せを運ぶ青い鳥みたいなものだった。
 SNSのタイムラインをスクロールすると、愛国者を名乗るアカウントが、韓国をルーツにもつ女優を攻撃していた。さらにスクロールしていくと、フェミニストとミソジニストが罵り合っていた。誰かにとって男は救い難く愚かで、誰かにとって女はどうしようもなく傲慢ということだった。
 僕の人生はいつからつまらなくなったんだろう?

 新宿駅のホームで電車を待っていると、黛からメッセージが届いた。
「今日、暇だよ。店に来たら?」
 黛から連絡が来るのは、週初めか、今日のように雨降りのときが多い。店が暇で少しでも売上を取りたいということなんだろうけど、低所得者である僕に貢献できることは少ない。それでも僕に連絡をよこすのは、同郷、同年代という気安さからだと思う。僕は「わかった」と返信して総武線に乗り込んだ。
 帰宅ラッシュ時の車内は苛立ちが充満していた。僕はもみくちゃにされながら車内中央に押し込まれ、なんとか目の前にぶら下がっている吊り革を掴んで自分の居場所を確保した。電車が動き出して、何人かが大きくよろめいた。若い男が年配の男に激しくぶつかったことで諍いが起こった。年配の男は若者に「傘の水がかかった」と怒鳴っていた。吊り革を掴まず、傘を持ちながらスマートフォンの操作をしていたことが原因で起きた衝突で、若者に非があるのは明白だった。でも、車内の批難は年配の男に向けられていた。喧嘩を始めた二人を止める人は現れず、僕たちはA地点からB地点まで、等しく不幸な顔をしながら運ばれていった。結局、年配の男の怒りは諦めの空気が飲み込んでいき、背中を丸めながら中野駅で降りていった。残された乗客たちは、亡霊のような瞳をスマートフォンの画面へと移していった。
 隠れ家スタイルという言葉があるけど、黛が働くバー・ヨクナパトーファこそ、隠れ家の名にふさわしい。この店は本当に隠れている。民家とマンションの隙間を蟹のように進んでいかないと入っていけない場所にあり、看板も出ていないから初見では絶対に辿り着けない。僕がこの店を知っているのは、サラリーマン時代に営業で来ていたからだ。そういうきっかけがなければ知ることはなかっただろう。
 店に入ると、カウンターの中で何かの作業をしていた黛に「いらっしゃい」と声をかけられた。僕は会釈してカウンター席に座った。
 先客が一人いた。年齢はおそらく僕の十個上ぐらい。ダークグレーのスーツ、よく磨かれたストレートチップの革靴、短くカットされた髪の毛。その格好から僕は、弁護士か医者、もしくは学者の類だろうと推測した。自分で商売をしているようには見えない。かと言って誰かに使われているようにも見えない。男は落ち着いた空気を纏いながら、スマートにワインを飲んでいた。
「まだ雨降ってる?」
 グラスを僕の前に置きながら黛は言った。
「パラパラ降ってる。今日は一日雨だろうね」
 黛は僕の返答に関心を示さず、店内の黒板を指さして「何にする?」と言った。
「フランス、ロワール、シュナン・ブラン」
 僕は黒板の一番上に書かれている文字を読んだ。次は二番目に書かれているワインを頼むつもりだ。
「郡はゴールデンウィークに地元帰る?」
「帰る予定はないな。黛は?」
「帰らない。帰ってもやることないし」
 僕は目の前に注がれる液体を眺めながら「そうだよね」と言った。
「郡の仕事は忙しいの?」
「いや、忙しくはないね。決まった時間に決まったことをするだけだから」
「面白い?」
「いや、ちっとも」
「じゃあ、辞めたら?」
「辞めたくなくても来月で契約終了だよ。どうやら世間的にコロナは終わりってことらしい。楽な仕事だから続いてほしかったんだけど」
「コロナが続いてほしい?」
 黛は意地悪な顔をして僕に訊ねた。
「あの……」
 隣の紳士が黛を呼んだ。紳士はおかわりのワインと、煮込み料理を注文し、黛は厨房のほうへ引っ込んでいった。狭い店内に残された僕たちは、瞬間、奇妙な空白を共有した。
「郡さん?」
 二つ隣のスツールから声をかけられ、僕は手元のワイングラスから紳士のほうへ視線を移した。
「珍しいお名前ですね。郡山の郡ですか?」
「はあ、そうです」
「あ、佐々木といいます。昔、郡山に住んでいたことがあったのでつい懐かしくなって。出身はそちらのほう?」
「いや、もっと北ですね」
「福島より北というと宮城とか?」
「青森なんです」
 今度は僕が出身地を訊ねるべきだったけど、黛が料理を運んできたことでそのタイミングは失った。
「黛さんも青森だったよね?」
 佐々木さんは、煮込み料理にフォークを刺しながら言った。
「そう。郡とは同郷なの」
「前からの知り合い?」
「うーん。前からというか……」
「僕がサラリーマンだったころ、営業でこの店に来てたんです。そのときは黛にペコペコしてましたよ。これ買ってください、あれ買ってくださいって。コロナで会社を辞めてからは、ただの客です」
 僕は佐々木さんに経緯を説明した。
「そう、そう。前は私が買うほう。今は売るほう」
 黛は、ね? と言って僕を見た。
「へえ、面白い関係だね」
「佐々木さんは大学の先生なの」
「纏っている空気でわかるよ。インテリジェンスが滲み出ている」
 僕は軽口を叩いた。
「いや、大した仕事じゃないんです。生徒や娘にも馬鹿にされっぱなしで」
「娘さんはおいくつなんですか?」
「十七。高校生です。そうだ、黛さん。音楽は詳しい?」
「どうして?」
「娘が今度、友人たちとライブをやるんだけど、僕は門外漢でさ。一緒に行ってくれないかな?」
「音楽なら私よりも郡のほうが詳しいよ」
「いやいや、若いころは聴いてたけど、最近の音楽は全然」
「それが、娘たちの間では九十年代の音楽が流行ってるらしく。リヴァイヴァルっていうのかな。多分、お二人が学生時代に触れていたようなものがクールということになってるみたいなんです」
 流行は繰り返す、か。音楽も、ファッションも、カルチャーも、そして疫病も。
「例えばどんな音楽が流行ってるんです?」
「ええと、なんだったかな」
 彼はスマートフォンを取り出して、娘が演奏してる動画や、SNSのアカウントを僕と黛に見せた。
 教授の娘はドレスダウンさせたファッションに身を包み、つまらなそうな表情でフェンダーをかき鳴らしていた。影響元はニルヴァーナ、ホール、ピクシーズ……。なるほど、我らの世代のサウンドだった。
「どうですか?」
「確かに僕たちが聴いていた音楽に影響を受けてる気はしますね。いいと思いますよ」
「なるほど。でも、これを聴いて何と言えばいいんです?」
 佐々木さんの真剣な表情に僕は思わず笑ってしまった。テクニックもなく、キャッチーなサウンドでもなく、特段メッセージもなく、無気力そうに演奏している娘の音楽にどうコメントしていいのか、ということだろう。
「これは音楽というか、態度なんですよ。アティテュード、つまり姿勢、ロックにはこういう表現があるんです」
「ふむ」
 教授は納得していない表情で頷いた。
「みなさん、どうでしょう。今度の日曜日、娘の演奏を一緒に観に行ってくれませんか?」
「まあ、行ってもいいかな。ねえ、郡?」
 僕は曖昧に頷いた。
「良かった。自分ではこういうものを、どう評価していいかわからなかったもので。郡さん、ここは私がごちそうしますよ。黛さん、ペリエ・ジュエを一本」
 きっと、いい父親なんだろう。まあ、娘の将来にかかわることだし、応援してあげたいんだろうな。でも、彼女が標榜している音楽は、自ら進んで人生を棒に振ってやろうという類のものなんだけど。
 僕たちは閉店まで、シャンパーニュを飲みながらロック談義をした。佐々木さんは「グランジ、オルタナティブ」という言葉を覚えて、嬉しそうに繰り返しながら店を出ていった。結局、その日来た客は僕と佐々木さんだけだった。
「ねえ、郡。この後時間ある? ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど」
 明日も仕事だけど、黛の真剣な表情を見て、僕は「時間ならあるよ」と返事をした。
「コーヒー淹れるからちょっと待ってて」
「思いっきり苦くしてくれよ」
 僕はそう言って、SNSを開いた。タイムラインを見るとどこかで地震があったらしい。スクロールしていけば震源地がどこかわかるだろうと思ったけど、アイドルの不倫報道と、タレントの不審死がそれを遮るように流れてきて、結局、震源地はわからなかった。
「お待たせ」
 黛はエプロンを脱いで、僕の隣のスツールに腰掛けた。
「熱いから気をつけて。サンドイッチ食べる?」
「もらおうかな」
 黛はアルミホイルに包まれたサンドイッチを僕の前に置いた。
「それで話って?」
「私、この店辞めるの」
 銀紙を開く手を止めて、僕は黛の顔を見た。
「どうして?」
 陳腐な質問に黛はほほえみで返した。
「ヨクナパトーファって知ってる?」
「この店の名前だろ?」
「そう。それじゃ、どういう意味かわかる?」
 僕は首を振った。
「ウィリアム・フォークナーが生み出した架空の土地の名前。彼が書いた小説の大半はヨクナパトーファが舞台なの」
「へえ、それじゃ、ここも架空の店かもしれない」
 黛は「そうかも」と言って楽しそうに笑った。
「それで、辞めてどうするの?」
「フォークナーの小説に『響と怒り』という作品があるんだけどさ」
 そう言って、黛はサンドイッチを口に運んだ。それを見て僕もサンドイッチを一口食べた。チーズが入っているだけのシンプルなサンドイッチだったけど、とても美味しかった。
「その中にクウェンティンという登場人物が出てくるの。彼は呪われた運命を断ち切るために、親から譲り受けた大事な懐中時計を破壊する。そうすることで、時間が止まると思ったんだよね」
「時計を壊して時間を止める?」
「そう。小説の世界ではそういうことができるの」
 僕は何と言っていいかわからず、黛が話し出すのを待った。
「私、小説を書いてみたいの」

 ベッドで横になりながら、スマートフォンの画面をスクロールする。こんなことは間違いなく無益だ。SNSのチェックや、ニュースの閲覧なんて純粋な浪費でしかない。アルコールのせいで頭は痺れ、口の中はからからに乾き、早く眠ってしまいたかったけど、醒めた脳は僕にスマートフォンのスクロールを命じ続けた。
 黛は仕事を辞めて小説を書くと言う。僕には理解できない。まあ、書くのは自由だ。だけど、仕事は辞めなくてもいいんじゃないかと思う。飲食店が大変だというのはわかるけど、年齢を考えたら働ける場所はどんどん限られていくし、条件は加速度的にシビアになっていく。執筆しながら働ける職場なんてそう簡単には見つからないだろう。コロナ禍で、大きな会社から、中小、個人事業主まで、ハエのようにバタバタと地面に墜落していっている様を、審査業務を通して見ている僕には、仕事を捨てるなんて到底できないし、思いつきもしない。
 SNS上で、誰かが「あのキャラクターは胸を強調しすぎている」と投稿していた。誰かは、「もう外ではマスクをしない」と宣言していた。誰かは、「子どもなんか欲しくない」と言い、誰かは与党を批判していた。それらの意見すべてに反対意見があり、発言者、批判者の真ん中に引かれた線は跨がれることなく、両者は反対方向を向いて自分を擁護してくる人たちだけとコミュニケーションを取っていた。この人たちは幸せなんだろうか? 十全に生きているのだろうか? それは、ダラダラと他人の対立を眺めているだけの僕自身にも言えることだった。

 よく晴れた日曜日、約束の時間よりも早く待ち合わせ場所に着いた僕は、時間を潰すために本屋に立ち寄った。開店したばかりの本屋は清潔で、新鮮な空気で満たされていた。今、どんな本が売れているんだろう。一番目立つコーナーの前に行くと、ビジネス書が山のように積まれていた。どの本もスマートなフォントで、刺激的な言葉が書かれていた。僕はその中の一冊を手に取って、パラパラとページをめくってみた。海外の有名経営者が推薦するその本はわかりやすく、論拠もしっかりしているように思えた。
 再来月から無職になる我が身を思うと、こういう本を読んでみるのも悪くない気がした。ダラダラとSNSを眺めているよりはきっといいだろう。僕は本を閉じて、レジに持っていった。
 久しぶりに行ったライブハウスは、煙草の匂いも、アルコールの匂いも、公衆便所のような匂いも一切なく、クリーンで、安全な場所になっていた。変わらないのは、演者のエゴ剥き出しのパフォーマンスと、スタッフの無気力さ。そこだけは僕の時代と変わっていなかった。
 教授の娘のバンドはなかなかに真っ当だった。というか真っ当すぎた。きっと好きな音楽についてかなり勉強したんだろう。歪んだギターサウンドに、ルーズなリズム。破れたデニムに、マイナーなロックバンドのロゴが入ったTシャツを身につけて、陰鬱な歌詞を、退屈そうな表情をしながら、爆音で吐き出す。つまりはニルヴァーナ。そのパフォーマンスは、過去へと向けられているように感じた。
 ライブが終わり、教授の娘は僕たちのところに来て感想を聞きたがった。佐々木さんは「良かったよ」と言った。そして僕に同意を求めた。僕は「まるで九十年代のシアトルに来たみたいだったよ。完璧にグランジのサウンドだった」と、いくぶんの皮肉を込めて言った。それを聞いた娘は、目を輝かせて僕から話を聞きたがった。素朴で純粋なこの態度が、彼女本来の姿なんだろう。その純粋さを過去というコスプレで覆って、それを表現だと思っている彼女に僕は落胆した。きっと彼女の勤勉さは、自分の首を絞めている。
 少女とオルタナティブロックを巡る会話を続けていると、だんだん僕は惨めな気分になっていった。自分が過去に属する人間に思えてきたからだ。僕は佐々木さんと、黛にバトンタッチして席を立った。
 ラウンジを出ようとしたら少年に声をかけられた。「どうしたの?」と訊くと、彼はおどおどしながら「あの、僕たちの演奏はどうでしたか?」と言った。緊張したその表情を見て、きっと勇気を出して僕に声をかけたんだろう、と思った。僕は正直に「最悪だったよ」と言った。
「きみたちはカート・コバーンなんか存在しないと思ったほうがいい。もっと自分を手放してしまってもいいんじゃないかな」
 それを聞いた彼は力強く頷き、爽やかな笑顔で「ありがとうございます」と言った。何かが伝わった感触があった。
 僕と黛は打ち上げには参加せず切り上げることにした。教授とその娘は何度も僕たちに「今日はありがとうございました」と頭を下げ続けた。まるで、家庭訪問に行った教師のような気分だった。
 外に出てしばらくは、鼓膜に非日常の残響が鳴っていた。それでも休日が発する雑多な音が、あっという間に僕を現実の倦怠へと連れていった。
「ライブ帰りなのにまだ昼過ぎだなんて変な感じ」
 腕時計を見ながら黛は言った。
「高校生のイベントだったしね」
「まあねえ、郡はこの後何か予定はあるの?」
「何もないよ。黛は? 仕事?」
「仕事だけど、予定より早く終わっちゃったからどこかで時間潰したい。つきあってくれない?」
「いいね。遅めのランチでもしようか」
 そう言ったものの、日曜のこの時間はどの店も満席だった。仕方なく僕たちは、手分けしてパンと飲み物を買ってきて、公園で食べることにした。
 小規模の公園のパッとしないベンチで、僕はパンが入った紙袋を受け取り、黛にマウントレーニアを渡した。
「私もビールがよかった」
「だって仕事だろ?」
「一本ぐらい飲んでも平気だよ。どうせ、仕事中も飲むんだし」
「わかったよ、買ってくる」
 僕は開けかけた紙袋を閉じて立ち上がった。確かにこんな天気の日にビールを飲まないなんて罪に思えた。
 目の前のコンビニで買ってきたキリンラガーを黛に渡すと、「サンキュー」と言って、僕よりも先に飲み始めた。乾杯も待てないのかよ、と思ったけど、その嬉しそうな顔を見たら、善を成したような気になった。
「コロナも終わりかね」
 一息ついた黛は公園を見回して言った。半分以上の人がマスクを外していた。当然、食事をしている僕たちも外している。
「コロナが終わり、僕の仕事も終わる」
「私の仕事も終わる」
「それで、辞めてどうするんだよ?」
「だから書くんだって」
「それはわかったけど、仕事は?」
「バイトでもするよ」
「せっかく正社員で働かせてもらってるのにもったいなくないか?」
「働かせてもらってる?」
 僕はミートパイを食べる手を止めて黛の顔を見た。
「働いてやってる、だよ」
「いや、そうかもしれないけどさ」
「それ、今日演奏した子たちにも言える?」
「あいつらはまだ若いだろ」
「若さ、老いの基準はどこ? どこかに境界線があるの?」
「一般的な話だよ」
「私だって、普通のことを言ってるよ」
 妙な空気を変えるために、僕は黛に今働いている職場の現実を語ることにした。
「非正規の現場はさ、負け犬の見本市みたいなもんなんだよ。半分は退職した老人、残りはまともな職に就けないやつ。それは年齢だったり、病気だったり、家庭環境だったり、単に怠惰だったり、いろいろだけど、そこで働いてるやつにはいくつか共通点があって、それは向上心の無さ。志の低さ。諦めが通奏低音のように流れているんだ。そんな環境でも働かなきゃならない。わかるだろ? 食うためだよ」
「郡は敗北の語源を知ってる?」
 僕は首を振って、パンにかぶりついた。
「郡もだけど、私も生まれが青森、北国でしょ? あるとき、なんで敗北という言葉には北という文字が入ってるんだろう、と疑問に思ったわけ。敗南じゃダメなの? ってさ。それで語源を調べたら、北という漢字が背中合わせの人間を表しているから、というのが理由らしいんだ。方角のことじゃないみたい」
 僕は「それで?」と言った。ちょっと冷たかったかな、と思ったけど、黛はほほえみながら「向き合えばいいんだよ」と言った。
「そうすれば敗れることはない」

 家に帰った僕は黛と話したことを何度も考えた。やっぱり黛には現実が見えていないと思う。だけど、彼女の人生だ。好きに生きればいい。
 僕はベッドに寝転がって、昼に買った本を読み始めた。そこには刺激的で、蒙が啓かれる言葉が並んでいた。精神的に「自立」し、「辿りつきたい自分像」を設定し、それに向かって優先度を振り分け、達成を目指す。重要なのは「習慣」と、人を巻き込んで「シナジー」を作り出すこと。四十歳からでも遅くない。むしろ今がチャンスなんだ。
 書かれている言葉はどれも腑に落ちるものばかりで、共感し、勇気づけられた。真っ当で、無駄がなく、希望に溢れる言葉に触れて、こんな自分でも成功することができるかもしれないと思わせる説得力があった。じゃあ、やればいい。その通り。やるんだ。「自立」を目指し、「辿りつきたい自分像」に向かうんだ。
 読んでよかったと思った。本当に。だけど、読み終えた僕はどうしてこんな気持ちになっているんだろう? この虚しさと、寂しさはどこからやってきたんだろう? きっと、それについて書かれている本はどこにもない。

 午前の休憩中、職場の中庭にあるベンチに腰掛けてスマートフォンをいじっていると、同僚の遠藤さんがやってきて「今日の社食、八宝菜だって」と言った。
「へえ、食べるんですか?」
「いや僕はね、カツカレー食べるの」
 老人なのによく食べるな、と思ったけどそんなのは遠藤さんの勝手だ。彼の胃袋は彼のもので、彼の食欲は彼だけのものだ。
「郡さん、再来月からどうするの?」
「さあ、どうしましょうかね」
「まだ次のところは決まってないの?」
 ぼくは「ええ」と言って、遠藤さんのためにベンチをあけた。遠藤さんはベンチには座らず「若いんだから頑張りなさいよ」と言って、日陰のほうへ歩いていった。
 若いんだから、か。確かにこの職場にいると、自分が若者であるかのように錯覚してしまう。地元では四十歳なんて、爺さん扱いなのに。
 昼休憩に食堂へ行くと、遠藤さんが言った通り、メニューに八宝菜があった。別に不味そうには見えなかったけど、特段頼みたくなるような要素もなかった。僕はきつねうどんを注文し、スマートフォンをいじりながら端の席で静かに食べた。
 中庭のベンチに座って食休みをしていると、遠藤さんがやってきて、「八宝菜食べてみたよ」と言った。
「カレーはやめたんですか?」
「カツが売切れてたの」
「へえ、それで八宝菜はどうでした?」
「普通だったな」
 僕たちは笑った。
「まあ、社食ですもんね。そこに中華料理屋のクオリティを求めても――」
 遠くで雷が光るのが見えた。
「今、光りましたよね? これから雨かな」
 遅れて聞こえる雷の音が、牧歌的な中庭の雰囲気を一変させた。空は雷の存在に気づいていないかのように、気持ちよくその青を広げていた。
「僕ね、雨と晴れの境目を見たことがあるの」
「境目?」
 遠藤さんは右手を振って「こっちが晴れ」、左手を振って「こっちは雨」と言った。
「こっちの道路はカラカラに乾いてるの。でも、反対側は土砂降り。真ん中にくっきりと境目が見えて……、あれは不思議だったなあ」
 目を細めて空を見上げながら遠藤さんは言った。空が再度ピカ、ピカ、と光り、頭上の雲が慌ただしく形を変えていった。
「そのとき、遠藤さんは境目のどっち側にいたんですか?」
 彼は一瞬不思議そうな顔をした後、少年のように笑って、「忘れちゃったなあ」と言った。休憩終了十分前を知らせるチャイムが鳴り、遠藤さんは「先、行くね」と言って、よたよたと建物のほうへ歩いて行った。
 雨と晴れの境目か。右は晴れ、左は雨。今、目の前でそれが起こったら僕はどうするんだろう? 
 僕は勢いよくベンチから立ち上がって、その場で伸びをした。今日、仕事が終わったら、ヨクナパトーファに顏を出そう。そして黛におすすめの小説を聞いてみよう。きっと、よくわからない小説を勧められるに違いない。難解で、分厚くて、僕の常識を超えたものを。
 僕はスマートフォンをポケットにしまって、空に大きく「北」という字を書いた。そして縦に素早く線を引いた。これで背中合わせの二人は自由だ。自由にどこへでも行ける。
 僕は敗れたのだろうか? どうなんだろう。世間的に見れば僕は負け犬、社会の敗者なのかもしれない。だけど、世間や社会というものはいったいどこにあるんだろう? 少なくとも今の僕の周りにはないはずだった。もしかしたら、世間というものはタイムラインに垂れ流される整然とした文字列でしかないのかもしれない。
 雨の匂いがした。それは濃い夏の匂いだった。僕は無人の中庭で、初めての夏休みを迎えた小学生のように、目一杯、目の前にある空気を吸い込んだ。

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