欠点だらけの自分を小説に重ねて生きている
とうとう俺の友人から書籍を出すやつが現れた。そいつは@osenti_keizo_lovinson(おセンチケイゾーロビンソン)というアカウント名を持つインスタグラマーだ(ケイゾーは本名、ロビンソンは吉井和哉の別名吉井ロビンソンから取っている)。
@osenti_keizo_lovinsonとは何者か?
彼は息を吐くようにセンチメンタルを垂れ流す感傷だけが発達した永遠の中学二年生であり、ロック好きなキッズおじさんであり、第三のビールとスーパー玉出の総菜を愛する美食家でもあり、書評をしない書評家であり、ギターを弾かないミュージシャンであり、自意識が加速するとコメント欄を封鎖する困ったちゃんでもあり、もう住んでいないのに中央線について語りたがり、浅尾いにおの漫画のキャラもびっくりのメンヘラホイホイでもあり、誰よりも弱さというものを知っている愛すべき男である。
平野敬三(敬称略)は一言で言うと、おセンチなやつなのである。
そんな彼が書籍を出した。
どんな本なのか?
小説じゃない。エッセイでも詩集でも評論集でも伝記でもない。Instagramのキャプションに加筆修正した〝キャプション〟本なのである。
本を読むと、本当かどうか判別できないくらい薄れてしまった、あのときのあやふやな積み重ねこそが、紛れもない僕自身なのだということをもう一度思い出させてくれるのである。
Instagramに綴られた書評にかこつけた自分語り「感傷読書日記」。
#読書好きとつながりたい
WEB本の雑誌
帯の惹句というものは、大げさだったり、いまいちピンとこなかったり、なんなら逆に営業妨害だろ、みたいなものが多いけど、『センチメンタル リーディング ダイアリー』の惹句〝欠点だらけの自分を小説に重ねて生きている〟はとても素敵だし、本質を突いてると思う。
俺たちが本を読むとき、音楽を聴くとき、やはり共感というものはとても大事で、読者、オーディエンスが〝読む〟〝聴く〟という行為で補完することによって、その作品は完成すると思うんだ。
著者であるケイゾーの場合は、もはや〝共感〟という域を超えて、人生を仮託してしまっているようなところがあって、それが滑稽だったり、情けなかったり、感動したりする。つまり、感傷だけが発達したチンカス野郎ということなんだけど、こういう読みかたをする読者は、作家にとって一番嬉しい存在に違いない。だって〝読んでおしまい〟じゃないんだよ?
彼にとって読書とは、人生と密接に交じり合った太陽に溶ける海なんだ。
#読書好きとつながりたい
#読書好きとつながりたい
ハッシュタグである。
Instagramを活用している方ならご存じかと思うけど、この「#」マークを文頭につけて発信や検索をすると、同じタグをつけているユーザーの投稿等にジャンプすることができる。そうすることによって、趣向が似ている投稿や、同じ趣味をもった仲間を探しやすい。
俺も、自分が運営しているサイト名である#誌的ライナーノーツというハッシュタグをつけて投稿しているけど、Instagramがバズることもなければ、このサイトのPVが増えることもない。残念なことである。
ケイゾーは毎回律儀に#読書好きとつながりたい というハッシュタグをつける。いささかベタで、こっぱずかしいハッシュタグではあるけれど、彼らしいなとも思う。
彼は本(や音楽)によって「繋がった」ものをとても大事にする。よくそんな昔のこと憶えてんな、ということを、まるで先週のことのように話す。
案外ドライなところがある彼だけど、自分が愛したもの、愛されたもの、自分が傷つけたもの、傷つけられたものに対する感受性は碇シンジもびっくりするほどだ。というか、彼が持つその性質は主人公っぽい。
そう。〝この物語の主人公は僕だ。いつだって、そう思ってしまう〟というわけだ。
つまり、感傷だけが発達したチン……(以下略)
時には切れかけの蛍光灯のように
『センチメンタル リーディング ダイアリー』は、こういう企画本にありがちな、雰囲気や体裁だけ整えて、はい終了! といった類のものでは決してない。これは約300ページというとんでもないボリューム本なのである(カミュの異邦人の3倍だ!)。
扱っている作家の数も凄い。
以下収録リスト
『できそこないの世界でおれたちは』11
『平場の月』12
『ゼラニウム』14
『さみしくなったら名前を呼んで』16
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』18
『水を縫う』22
『東京の異界 渋谷円山町』25
『サキの忘れ物』28
『だまされ屋さん』31
『古道具 中野商店』36
『正欲』41
『おべんとうの時間がきらいだった』44
『AMEBIC』48
『果てしなき輝きの果てに』51
『流浪の月』54
『すべて忘れてしまうから』56
『悲しい話は終わりにしよう』60
『初夜』62
『百年の散歩』64
『悪女について』66
『猫を抱いて象と泳ぐ』71
『アウア・エイジ』75
『震災風俗嬢』78
『星月夜』81
『あとを継ぐひと』85
『自転しながら公転する』89
『最後の命』93
『イン ザ・ミソスープ』96
『ビニール傘』99
『大阪』101
『暗渠の宿』104
『ア・ルース・ボーイ』107
『星を掬う』110
『タクジョ!』113
『夜行秘密』117
『これはただの夏』121
『その姿の消し方』125
『海炭市叙景』128
『光』 132
『終わりまであとどれくらいだろう』136
『真夜中の果物』138
『海鳴り』140
『長いお別れ』143
『あこがれ』144
『きみがつらいのは、まだあきらめていないから』146
『悲しみの秘義』147
『ダーティ・ワーク』149
『たそがれどきに見つけたもの』152
『私たちが好きだったこと』156
『いちばんここに似合う人』159
『母影』163
『ガリンペイロ』167
『アポクリファ』171
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』175
『今夜、すべてのバーで』177
『往復書簡 初恋と不倫』180
『逆ソクラテス』183
『息子たちよ』186
『流しのしたの骨』189
『センセイの鞄』191
『眠れない夜は体を脱いで』194
『推し、燃ゆ』197
『持たざる者』200
『愛の顚末』204
『家族最後の日』207
『死にたい夜にかぎって』211
『若者はみな悲しい』215
『小島』219
『愛がなんだ』224
『ガラスの街』228
『悪声』232
『季節風 春』236
『短編集』240
『虐殺器官』242
『永い言い訳』244
『私の男』247
『人でなしの櫻』252
『指の骨』254
『八月の母』258
『死んでいない者』262
『国境の南、太陽の西』266
『捜索者』270
『N/A』273
『クラウドガール』275
『最果てアーケード』280
『夜のピクニック』284
『フルタイムライフ』288
『アレルヤ』292
【あとがき】的なやつ297
【謝辞】302
注目したいのは第一話の『できそこないの世界でおれたちは』と、最終話の『アレルヤ』だ。
どちらも著者は桜井鈴茂である。もちろん、彼の敬愛する作家だから頭と最後に配置したというのも理由としてはあるんだろうけど、そこにこんなメッセージを読み解くことはできないだろうか?
できそこないの世界であってもおれたちは祝福(アレルヤ)しようぜ
どうだろう? 考え過ぎかな。だけど、大きく外れてはいないと思うんだ。
だって、大好きなロックのアルバムを聴くとき、曲順というものは大きな意味を持つものじゃない?
この曲で始まって、この曲で終わらないとダメだ、という完璧で不完全な美しい収まりがさ。
それと、この本のタイトルは当初『時には切れかけの蛍光灯のように』になる予定だったらしい。
〝太陽ってさ、時々雲に隠れちまうんだよな〟というあまりにも〝僕たち〟しているタイトルなわけだけど(そして実に、らしいタイトルだけど)、『センチメンタル リーディング ダイアリー』という「普通」のタイトルをつけたことで、彼は隠れた場所から出てきたように感じるんだよな。それはきっと一歩踏み出すために。生を肯定するために。
あの感じ
著者のケイゾーが書く文章は俺たちに「ほら、あの感じだよ」と伝えてくる。
初めてデートをしたときの「あの感じ」
初めてライブに行ったときの「あの感じ」
何も失うものがないはずなのに損なうことにひどく敏感だった十代の「あの感じ」
うまく未来が描けずに自分の無力を嘆いた「あの感じ」
こっぴどい失恋に伴う「あの」痛み
表現のベースになっているものは感傷だけど、彼が書いてるのはどれも生の肯定だ。
生きることはみっともないことだ。
美なんてきっと幻想なんだよ。
最後の葉っぱが落ちるのを美しいと感じるのは、そこに自分勝手なストーリーを見出しているからだ。
ステージに立つシンガーが自分のために歌ってくれることもないし、この小説が自分のために書かれたなんて錯覚にすぎない。
もちろん著者のケイゾーだってそんなことはわかっている。
だけど、そんな風に錯覚させてくれない作品になんの価値がある? 俺たちはすでに十分やっかいな「現実」があるじゃないか。
すすんで騙されよう。大丈夫。先頭にはケイゾーがいる。
ケイゾーを笑って、笑われようぜ。滑稽で愉快な人生ってやつを楽しむんだ。
それじゃ最後に一言。
アレルヤ!
ここまで読んでくれた皆さん、ぜひ、ワタシのInstagramのキャプションに「いいね」またはコメントを……
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