レディオヘッド 『キッドA』 オプティミスティック 歌詞考察

歌詞考察
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楽観的、あきらめの気配

‟オプティミスティック”――楽観的というタイトルのこの曲は、インストゥルメンタル曲の‟トゥリーフィンガーズ”の瞑想的な響きのあとに続く楽曲だ。

インストなのに、‟トゥリーフィンガーズ”は公式のライナーノーツにこんな感じで掲載されている。

カチン

カチン

カチン…

レディオヘッド 『キッドA』‟トゥリーフィンガーズ” 対訳:山下えりか

実際こんなフレーズが出てくるわけではないけれど、このカチン、カチン…という言葉があるおかげで、緊張感のある曲に感じることができるし、次に続く‟オプティミスティック”が切迫感をもって捉えることができるような気がする。

この曲は、『キッドA』の中ではけっこうロックしてるほうで、トライバルなリズムと、エレキギターのコードをストロークする音、そしてトム・ヨークの「歌」を聴くことができる。

没入感がある曲なのでパフォーマンスもエモーショナルだ。

Optimistic (From The Basement)

徐々に高まっていくバンドの熱気がいいですね。サビのフィルが叩くドラム・パターンが凄くクール。そしてエンディングのダイナミックな一体感が心地いい。

それじゃあ、歌詞のほうを見ていこう。

オプティミスティック 和訳

蠅がぼくの頭の回りでぶんぶんいい、

ハゲタカは死者を取り囲み、

最後の一かけまで拾いあげる

でかい魚は小さい魚を食う、

でかい魚は小さい魚を食う、でも

ぼくが困るわけじゃない、ぼくにも何かくれよ

できるかぎりのことをすればいい、

できるかぎりのことをすればいい、

きみにできるかぎりでいいんだよ

こいつは楽天的で、こいつはマーケットへ行って

こいつはたった今

沼から上がってきたばかり

こいつは積み荷を落とす、動物たちの飼料だ、

アニマル・ファームで暮らしている

できるかぎりのことをすればいい、

できるかぎりのことをすればいい、

きみにできるかぎりでいいんだよ

ほんとにきみを助けたいんだよ、

ほんとにきみを助けたいんだよ

だけどぼくはビクビクして混乱しきったマリオネットで

監獄船のまわりをぶかぶか浮いてるんだ

できるかぎりのことをすればいい、

できるかぎりのことをすればいい、

きみにできるかぎりでいいんだよ

できるかぎりのことをすればいい、

できるかぎりのことをすればいい

恐竜が地球を徘徊している

恐竜が地球を徘徊している

レディオヘッド 『キッドA』‟オプティミスティック” 対訳:山下えりか

でかい魚は小さい魚を食う

ピーテル・ブリューゲルという画家がいる。

その画家の作品に『大きな魚が小さな魚を食う』という版画作品がある。

これはネーデルランドのことわざで、「強い者が弱い者を犠牲にして富を得る」という意味合い。

この作品は1557年の作品なんだけど、現在はどうだろう? 「強い者が弱い者を犠牲にして富を得る」ことは起きているだろうか? まあ、起きてるよね。なんなら、「強い者が弱い者を犠牲」ということだけでいったら生命が地球上に存在してからずーっと起きてるわけだ。それが世界の原理、弱肉強食という循環サイクルなんだから。

「しょうがない」よね。

でかい魚は小さい魚を食う、でも

ぼくが困るわけじゃない、

そういうわけだ。

だからぼくたちは「できるかぎりのことをすればいい」

そう、「できるかぎりのことをすればいい」んだけど、この曲で、何度も繰り返されるこの言葉からは、うしろめたさのようなものも感じるし、あきらめの気配も漂っている。もうできることは何もないような気もするし、手遅れのような気がしている。

じゃあ、どうすればいいんだろう?

トム! 教えてくれ! と言いたくなる気持ちはわかるけれど、レディオヘッドが「こうすればいいんだよ」と示したものを安易に受け取ってしまったら、大企業のメッセージ「これをすればうまくいく!」「これを食べれば健康に!」「快適な車!便利!」といったイメージに飛びついてしまうことと一緒になってしまう。楽観主義は駄目だ、とは思わないけれど、コレ、イコール、コレ的な安易なものには何か落とし穴が潜んでいる場合もあると思う。

トム・ヨークは『キッドA』全体で、感情を示さず、状態を描くことに徹しているような気がする。この曲でも世界の構図を感情を交えずに描くことで、ぼくたちに自分の頭で考えることを促しているように思うんだ。

Wikipediaより転載 ピーテル・ブリューゲル「大きな魚が小さな魚を食う」1557年 版画  ピーテル・ブリューゲル – XQE024hSXOrhwQ at Google Cultural Institute

最後にブリューゲルの『大きな魚が小さな魚を食う』について。強者の「大きい魚」は、「小さい魚」を飲み込めるだけ飲んで身動きがとれなくなっている。そして陸にあげられ、腹を裂かれている状態だ。肥大した権力は知恵によって打倒される、という寓話を描いているようにも感じられないだろうか? 

恐竜が死んで、ヒトが産まれ、クニが誕生して、ぼくたちはもっとエゲツない食物連鎖の中にいる。舞台は同じく地球。どうすればいいんだろうね? 地球からすれば、人類が死滅すればハッピーなのかもしれないけれど。

「ベジタリアンになろうか?」「どれぐらい温室効果ガスを出す生活をしているか調べてみようか」「車を電気自動車に変えようか」「多国籍企業の功罪について調べてみようか」「大手企業のビジョンや施策について調べてみようか」「国の環境対策に関心を持とうか」「ナオミ・クラインの書籍を読んでみようか」「気候変動について調べてみようか」「海面がそれぐらい上昇しているか調べてみようか」「買い物ぐらい歩いていこうか」「友だちとこういった話題について話してみようか」

全部、人間のエゴかもしれないし、意味だってないかもしれない。なにか行動して間違うかもしれないし、何もしないのが正解かもしれない。ただ、事実として、権力は何も考えないもの(小さい魚)を好む。

ぼくたちは地球に生きている限り、ちょっとずつ地球を汚している。レディオヘッドのこの曲は恐ろしい。逃れられない現実に「楽観的」という名前をつけるなんて……ぼくは「しょうがない」と思うたびに、頭の中を恐竜たちがぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる闊歩しているシーンが浮かぶようになってしまった……

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