寺地はるな/わたしたちに翼はいらない ブックレビュー

レビュー/雑記
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世界最速レビュー#22 寺地はるな著『わたしたちに翼はいらない』

2023年8月18日ごろ、寺地はるなの新刊長編小説『わたしたちに翼はいらない』が発売されます。

「世界最速レビュー」シリーズとは、発売日まもなく書店員がその小説の見どころをたっぷりお伝えする連載です。

『わたしたちに翼はいらない』 寺地はるな | 新潮社
同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らしている三人。4歳の娘を育てるシングルマザー――朱音。朱音と同じ保育園に娘を預ける専業主婦――莉子。マンション管理会社勤務の独身――園田。いじめ、モラハラ夫、母親の支配。心の傷は、

同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らしている三人。4歳の娘を育てるシングルマザー――朱音。朱音と同じ保育園に娘を預ける専業主婦――莉子。マンション管理会社勤務の独身――園田。いじめ、モラハラ夫、母親の支配。心の傷は、恨みとなり、やがて……。2023年本屋大賞ノミネート、最旬の注目度No.1作家最新長篇。

新潮社

共通の地方都市で暮らす大人たちの多角的小説

寺地はるな新刊の今作『わたしたちに翼はいらない』では、ひとつの地方都市を舞台として、多面的な登場人物により物語が繰り広げられていきます。

『わたしたちに翼はいらない』第1章では様々なタイプの登場人物たちが、ちょっぴり風通しの悪い生活を送っている様子を読むことになりました。

彼らがどういったつながりを持つのか、あまりはっきりと明記がされていません。

続く第2章になると、各登場人物たちの人柄や思想がかなりよく見えるようになってきます。

そして第3章の辺りでは、点もしくはごく短い線でのつながりであった各登場人物たちの関係性が続々と見えるようになってくるのです。

視界が開けるように情報が与えられ続ける前半。

対して境となるある瞬間から、登場人物たちは「大きな負のエネルギー」に囚われるようになり、後半部分へと展開していきます。

抜けられないスクールカースト

「スクールカースト」とは、学校生活において、自然的に発生する生徒間の序列のことをいいます。

かつて小さな教室の中で、同い年の学生たちと共に時間を過ごしたことのある人ならば、きっと思い当たる空気があるのではないでしょうか。

大人になることの救われる点として、多くの人が成長することによってこのスクールカースト的な教室内の空気から脱することができます。

一方で、スクールカーストのごく上位にいた人たちは、大人になってからも他者に対し序列的な見方をしてしまう場合があります。

スクールカーストに特別苦しめられた者。

そしてスクールカーストの上位に立つことで、ある種人生の快感を知ってしまった者たち。

そのような学生がそのまま大人になると、どのようなことが起きるのでしょうか。

さらに「スクールカーストから抜け出すことのできない大人たち」が1つの場面に集まると、何が起きてしまうのでしょうか。

そうしたスクールカースト社会を実験的に描いた小説。

それが寺地はるな新刊の『わたしたちに翼はいらない』という小説だと思います。

寺地はるな 「透明な空気のような痛み」の書き手

寺地はるなの小説をこよなく愛してきた読者には、きっと伝わると思います。

寺地はるながどれだけ「透明化している疑問」を浮き彫りに書いてくれることが上手かという点についてを。

もちろん法律的にNGと線引きされているものもあります。

『わたしたちに翼はいらない』にも登場するのが、例えばモラハラ。例えば虐待。例えばいじめなど。

しかし「被害を受けている本人」と「被害を傍観している他者」とではそのボーダーが引かれる位置が大きく変わるのではないでしょうか。

「誰がどう思ったか」という曖昧な視点で語られる物事について、はっきりと口には出さないものの、なんとなく疑問に思い、なんとなくモヤモヤしている出来事は案外世の中に多いのではないかと思います。

このスクールカースト社会もまた1つです。

『わたしたちに翼はいらない』の登場人物たちは大人になってもなお、中学生高校生の頃に教室で感じた嫌な思い出が忘れられないのです。

さらに、たまたま大人になって仕事などで再会してしまった同級生に対し、スクールカーストの被害の記憶がふわっとフラッシュバックをするのです。

それほどまでにとらわれていて、抜け出すことができないスクールカースト。

しかし学生当時に大人にしっかりと相談できた登場人物は小説『わたしたちに翼はいらない』にはほとんどいませんでした。

せっかく親や先生に話すことができたとしても、なんとなく終わらされてしまったという思い出が多くの登場人物にはあります。

自分の主観で、他者を悪者にしてしまうことはとても恐ろしいことです。

しかし同時に自分の主観で、他者を虐げてしまうこともまたひじょうに恐ろしいことである。

両者がそう自覚をするためには、何が必要になってくるのでしょうか。

空気のような痛みが共感を呼ぶ

他者に堂々と被害を訴えることができないものの、自分の中で煮え切らないような出来事は、ひじょうに読者の共感を呼ぶのではないかと思っています。

それは読者の誰しもがきっと、感じたことのある気持ちだからではないでしょうか。

ノーをはっきりと言うことができない。

嫌だった、悲しかったとはっきりと伝えることができない。

そういった気持ちを負わないことがまず1番ですが、それはあまり簡単なことではありません。

では二次的な対処として寺地はるなのような作家の書く小説を読んで、『わたしたちに翼はいらない』のような作品の中で自分の共感できる登場人物と出会うことは、我々現代人の大きな救いとなってくれるのではないでしょうか。

文:東 莉央

東 莉央

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