コロナ時代が生んだ企画展
世田谷美術館で開催中の『作品のない展示室』に行ってきた。
2020年8月中旬、気温は灼熱。
美術好きの友達に教えてもらったこの展示だけど、お、面白そうじゃんとは思ったけれど、何がなんでも行きたいって感じではなかった。
ぼくが住んでいる場所から世田谷美術館までは電車で40分。まあ、遠くはないんだけど乗り換えが3回もある!
ちょっとだるいよな、とは思ったけれど、どうせ今は無職だしな、とも思って行ってみることにした。しかも自転車で……! 約10キロの炎天下のサイクリング。
汗だくで、美術館に着いたぼくは、まずドクターペッパーを自動販売機で購入して飲み干した。一秒ごとにぬるくなるドクターペッパー。素直に水でも買っておけばよかったと後悔する(本当はコカ・コーラを買おうと思ったんだけどペットボトルしか売ってなくて、ペットより缶がいいなと思ってドクターペッパーにした)。
美術館に入ると、まずは検温。そして連絡先を記入して受付へ。この入館スタイルがしばらくは続いて、いずれは当たり前になっていくんだろうな。
展示室に進むと、企画展のタイトル通り「作品がない」
ただ「側」があるだけだ。この空間にいる人たちはみんな窓を見ている。窓というかその先にある木を見ている。時々、窓の外を通行人が通る。ぼくたちは目で通行人を追う。みんな所在なさげに窓を見たり、ちょこちょこ移動したり、写真を撮ったりしている。
観る対象は「側」だ。作品はない。
この場所に立ってみて、作品がないというのはこんなに不安になるものなのか、と驚いた。
普通の(というか)展示なんかで、ぼくたちは、まずそこにある作品を観て、その次に作者や素材や年代の解説が書いてあるプレートを見る。作品が抽象的すぎると(マーク・ロスコとかジャクソン・ポロックとか)、プレートのほうばかり見てしまう。理解をしようとして。この目の前の作品が何を訴えているのかを知ろうとして。
人間は、理解がしたい。
現代では、すぐにスマートフォンで何についてでも調べられる(なんならこの展示会だって作品がないんだから行っても行かなくても調べれば概要は理解はできる)。
ぼくたちは今や「わからない」ことに耐えられない。
今回のこの展示は、コロナ禍における苦肉の策のものとばかり思っていたけれど、かなりユニークな体験ができた。
自分が、展示を観るときにどういう態度で作品と向き合うのか。
観る対象が存在しないと足場がないような不安定な気持ちになるということ。
作品がなくても「美術館」に来てしまったら、何かを「観」なければと思ってしまうこと。
コロナ時代が生んだ、この企画展。作品がないことによってとても印象深い「展示」になった。
展示されているものがないと、結局は自分のことを考えなければならない。
コロナ時代になり、すべてがリモート化していく中で、スマートフォンと向き合う時間が多くなっている。コロナ時代だからこそ強制的にでも自分と向き合うってやつをやったほうがいいのかもしれない。
世田谷美術館は、自然に囲まれていてロケーションがとても美しい。この美しい場所で自分と向き合ってもいいし、ここに含まれているという感覚を味わうのもいいと思う。それか、まったく違うことを考えてもいい。退屈だ、と思っても仕方ないと思う。ただ、体験してみてほしい。この空っぽの空間にいる。それが特別な体験になると思うから。
コメント