小説 『秘密、名を呼ぶこと』 スズキヒロ

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名を呼ぶ───愛情を込めて名を呼び、呼ばれたひとが僕を見つめ返した。僕の湖に映るのはありのままの二十八歳の僕でしかなく、あと二ヶ月もしたら二十九歳になる僕だ。彼女に映る僕は、出会った五年前より歳を重ね、魅力も興味も薄れて空気になった家族の一員、《夫》であり娘の《父》である。結婚したら当たり前のことだろう。それについて、何の不満もない。ただ自由を謳歌し、何かしらに縛られて制約されることを嫌っていたころは漠然とした不安と隣り合わせだった。いまはラベルが増えて社会的にはみ出さないよう気をつけて自由を失った。それらと引き換えに僕は安定と安心を彼女と享受し合う。僕らはほとんどを共有している。子どもへの義務と責任、家族としての役割。これらは義務とは感じない義務でしかなかった。心の中の2,3%の柔らかなものもときどき共有する───他人から見れば理想的な三人家族だろう。

僕には秘密がいくつかある。彼女にだってあるはずだ。そうした共有していないものをわざわざ公然と書くなんて馬鹿げた態度だ。そうだ、僕は馬鹿げた男でしかない。

数秒して、どうしたの?と聞かれ、僕は、名を呼んでほしいと頼んだ。半分呆れて無邪気に笑いながら僕の名を呼んでくれたから僕は彼女を抱きしめて、夫婦らしい短いセックスの後、お互い背中を向けて彼女は眠りに落ち、僕は暗闇の中で声にならない声で嗚咽した。

これもそのうち、何十年もしたら彼女に打ち明けて、暗闇の共犯者になれるかもしれない。あるいは、二度とそんなふうに何かを共有することはないかもしれない。

次の日、僕は一か月の出張に出かけた。新しいビル建設の施工管理のためだった。数週間後、いつものように現場へ向かうため車を走らせた。だだっ広い畑に鉄塔が立ち並ぶ。市役所の新庁舎建設現場に到着し、僕は車の中で段取りをしていた。夕べから下腹部にどことなく鈍痛が走っていた。きっとストレスのせいだろう。他社では一級建築士の手当が七万円つくと知り、僕はこのプロジェクトが終わり次第真剣に転職か独立を考えなきゃいけないと思った。僕は設計〜施工、おまけに施工管理もやって、構造計算も任され、おかしな研究所に派遣されたりもするのに手当は三千円だ。残業規制のせいで残業してもつけないのは暗黙の了解だ。納期に間に合わせるために、朝は七時に現場ヘ行き、夜は日を跨いで夜中の一時、二時に帰宅なんてざらにある。世の中、狂っている。そんなのをぼやいたところで何も変わらない。働き方改革なんてのが通用するのはスーパーゼネコンくらいだろう。あるいは、我が社「The昭和建設」以外だ。SDGsに沿った企業理念とは裏腹に、設立以来、半世紀ほど社風も慣習も変わらぬ我が社は伝統を大事にし、時代に流されないのだ。先に運ばれてきていたクレーン車が数十メートル先に停車していた。よく晴れた日だ。ゆっくりと大きな影がフロントガラスに近づいてきて、顔を上げると、僕のレゾンデートルそのものだった。僕のペニスが三十メートルほどに伸びて、いま、フロントガラスをゆっくりと打ち破って僕に襲いかかってこようとしているのだ。信じてもらえないかもしれない。けれど確かにそれは僕が二十八年間連れ添ってきたペニスで、見間違えるわけがなかった。妻なら証人になってくれるはずだ。色つや形から臭いまで、何から何まで僕のものであることを彼女なら直感的にわかるだろう。週に三、四回、家事育児のお手伝いをきちんとこなしたら、僕と寝てくれる。この五年間、彼女と共有したじゃないか。けれども、違う、と言うかもしれない。もしも、違う、と言ったら彼女が浮気していることになる───こんなことを考えているくらいだ。まだ意識はあるということである。あたりは血で染まり、僕は全身を強くクレーン・アームのように硬く三十メートルほどになった自分のペニスに圧迫されているせいなのか、それとも単純に骨が折れているからなのか、動かすことも出来ず、下半身は何も感じないのに下腹部と胸に息をするたび激痛が走る。そもそも、いつ、あいつは僕から離れて向こう側からこちら側に、のしかかってきたのだろうか。意識を失ったら死ぬのだろう、自分のペニスに押しつぶされて。だからこうしてとりとめもなく、記憶を手繰り寄せ、意識を保つ。僕は死にたくない。妻とはもっと昔のように愛し合いたいし、娘の成長だって見届けたいのだ。それともやっぱり、死ぬのだろうか?昔、結末がよくわからない映画があったのを思い出した。『ファイトクラブ』───なんでこんな時に思い出したんだろう。あれは、誰が書いたんだっけ……。チャック・パラニュークだ。映画のために書かれたような本だけど、本も映画も良かった。結末は両者で違う。はじめて観たときは、いつだったろう。いつだったか忘れた。その当時付き合っていたKが自殺してKと共通の友人Yと寮でファイトクラブを観ていたような気がする。

映画のあらすじはこうだ。
──
エリートで空虚な日々を送る男。ある日出会った自分とは正反対のハンサムな男にいざなわれ、異質の世界に足を踏み入れる。そこは男たちが素手で闘いを繰り広げる、壮絶で危険な空間だった。そのファイト・クラブで、彼は自己を開放していく。
──

Yには恋愛感情を抱かなかった。そもそも僕のタイプじゃなかった。ウクライナでユーロ・マイダンがたしかあったあとでヤヌコーヴィチ大統領が追放され、新たな政権が発足された。このクーデターには時の米国大統領、オバマが背景でアメリカの関与を明言していた*と思う。だから2014年かそこらだ。とにかく、僕は興味ないはずのYとファイト・クラブを観ていたら、男女の雰囲気になって抱き合っていた。そのあと目が覚めて、横で眠るYがまるで知らない誰かに思えた。何もかも、空間そのものがとてつもない《俗》に思えてさっさと起きて帰ってくれたらいいのにと願っていた。それから数日後、Yとふたたび顔を合わせた時には、《俗》っぽいだとかそうした感覚を覚えなかった。
《俗》的な僕───寝たYと僕とその空間すべてが一体であるかのような、どこか死んだKに覗き見られているような、でもそのまなざしも実は僕自身のまなざしのような、不思議な感覚に陥った。どうしてそんなふうに目が覚めたとき思ったのか、少し恥じた。それからしばらくして、原著を買い、「あゝ、最後、映画と違うのか」という漠然とした感想と、ドッペルゲンガー的な何とも形容し難い感覚に襲われた。

Kが突然居なくなってから僕は何がしたいのかわからないことが多くなっていた。
決まった時間に起きて、決められたとおりに仕事をし、決まった時間には眠る───ささやかな楽しみ、喜び、悲しみや怒りを心の底から分かち合えたKの突然の不在と、その穴埋めのようなかたちでときどきYや他の友人と寝た。

“If you don’t know what you want,” the doorman said, “you end up with a lot you don’t.”—『Fight Club』Chuck Palahniuk

本当に求めているものが何なのかわからないと、際限なく本来なら欲しくないものまでいつの間にか手にしている。僕そのものだった。喪失から、消耗だけのための資本主義的な欲望で虚無を埋めようとしても埋まるどころか砂漠は広がりオアシスはいつまで経っても遠くの蜃気楼でしかない。

ひとりの人間として、誠意のかけらもないどん底だったはずだが、その無責任な自由を懐かしく思い出した。

“It’s only after you’ve lost everything,” Tyler says, “that you’re free to do anything.”
すべてを失ったあと、何もかもが自由になる───そうだろうか?

決められた日常とやるべき仕事があったから僕は生ける屍のようになりながらも息をなんとかできていたようにも思える。



そんなフィクションを考えながら電子書籍を探すと原著がKindleにあった。
ポチる───原著、家に帰ればあるのに。
本当に欲しかったんだろうか?

まあでも、名著だからいいだろう。昼飯を二回おにぎりにすればいい。



残念ながら、Kindleをポチるためにスマート・フォンに腕を伸ばすことはできなかった。目の前のスマート・フォンは表面のガラスが粉々になっており、電源も切れているらしく、真っ黒な画面には血塗れの頭の半分から脳みそが飛び出している僕が映っている。手術して貰えばもとどおりにあった場所に引っ込めてもらえるのだろうか?それとも飛び出したままで、頭の表面をプラスチックかなんかでカバーしたりするのだろうか?右目が開かない。左目でハンドブレーキのあたりを見ると、そこには僕を見つめる右目が転がっていた。彼女の名を呼びたい。もう一度呼んで、抱きしめたい。僕は死にたくない。サイレンの音が大きく聞こえる。病院に行けばきっと大丈夫だろう。どうにかなる。人間そう簡単に死なない。いや、でもKは簡単に死んだじゃないか。いまだって世界中で簡単にひとの命が無数に消されている。音はやがて小さくなり、視界がぼやけていく。右目をなんとかしたかった。拾ってでもなんとかしたいと思った。生ぬるい感触がして、寒気がやってきた。僕は死ぬんだな、と思って、彼女に名を呼ばれたいし愛されたい、と願っている。少し眠ろう。いつかこんなに名を呼ばれたくて愛されたかったことと、転がる脳みそや右目についての秘密を打ち明けて共有しよう。そのとききっと僕は両目で彼女を見るだろうか。僕は誰の目に映っているのだろう。あの目は誰の目なのか。まだ僕を見つめているだろうか。
五月の終りなのに、ここは暑くて寒いし晴れていて暗い。
ごめんね───そう僕が呟くと、泣きながらシマノフスキのプレリュードOp.1-2が遠くからやって来て、僕の手を握りしめて右目をはめ込んで、僕のまぶたに手を添えて閉じてくれるのを感じた。生きたいんだ。きみたちを愛してる。きっと大丈夫だと思う。だいたいしつこいかもしれないけれど、僕の手当が三千円なんておかしな話だ。僕はもっと家族と向き合うために、時間を割いてあげるべきだった。ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』のフランス語版も二年近くかけているのにまだ読み終えていない。終りまであと百ページもないところまできたのに、読み終えずに死んでたまるか。いや、もっとちゃんと読んでおけば良かった。他の本なんか読むより、優先しておけば良かっただけじゃないか。娘の公園だってそうだ。もっと飽きるまで遊んであげて、早く帰ろうなんて思っちゃいけなかったのに。お箸の練習なんてどうでもよかった。手づかみで食べようとして、怒るなんてしなきゃよかった。プレ幼稚園なんて泣いたらその日は行かなくたってよかったかもしれない。絵本だって適当に端折って話すなんてしなきゃよかった。メロンパンナちゃんのぬいぐるみを買ってあげたばかりだ。それなのにドキンちゃんとミニーちゃんを抱きしめていたから、メロンパンナちゃんとも遊んであげないと、なんて馬鹿げたことを押し付けた。僕のエゴで娘にとっては、ありがた迷惑でしかないだろう。僕が自分のペニスに押しつぶされて死ぬ直前に、そんなことを後悔してるなんて、馬鹿げた話だろ?とにかく、死なないと決めて、少しだけ冷たくなっていく感覚と強烈な眠気に身を任せようと思う。あの子はどうしてあんなにアンパンマンが好きなのだろうか。アヴァロンの舟が見えてきた。あれに乗れば家に帰れる。ふたりが待つ家に帰りたい。眠ろう。妻のTちゃんと娘のEちゃんの名を声にならない声で最後の力を振り絞って叫んだ。最後まで読んでくれてありがとう。

※この物語はフィクションです。企業団体名は架空のものです。

註釈
ロシア部会「アジア太平洋地域における経済連携とロシアの東方シフトの検討」
公益財団法人日本国際問題研究所

スズキヒロ

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