小説 『湘南 小さな物語 冬のチケット小説』 スズキヒロ

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湘南 小さな物語 冬のチケット小説

何気なく日記帳を開いていたら、あのチケットが出てきた。冬の冷たく透き通るような夜はあまりに真空で、星々の輝きは純度の高い音のない音楽、あるいは、向こう側のひとたちの声なき語りのように思えた。ピンと張り詰めた空気の先───オリオン座の囁く声はそれで聴こえないのかもしれない。何年も経ったわけではないのに、古い記憶のように、チケットの日のこと、彼らのことを思い出していた。明日の昼すぎに年の離れた小さな女ともだちとふたりで動物園に行く約束をしている。早く眠らないといけなかった。それでも、あの日、無名のピアニストが弾いた『パガニーニの主題による狂詩曲』(ラフマニノフ)は、純粋な沈黙の中で、波の残響のようにわたしの耳の奥でいまも鳴り響いている。

ちょうどいまみたいに寒くて春を待つ頃、わたしは恋をしていた。正確には、その恋が終わりかけていて、しがみついていた。
「今日もユウからメッセージはなかった」
一日に何度も確認する彼からのメッセージ。

喧嘩したわけでもなくて、ただ、自然にどちらともなく連絡しなくなっていった。
多分、秋くらいからだ。

「ねえ、真美? 話、聞いてる?」
「そうか、わたし、真美っていうんだっけ」

キョトンとするリナの顔は、すぐに親しみ深い笑顔に変わっていた。

「そうだよ、真美だよ。真実の真に、美しいの美、真に美しい、真実は美しい、両方だね、真美は」───そうか、わたし、真美っていうんだった。ユウとのことだけではなかった。後輩が入社してわたしの所属部署に配属されたあたりから、わたしは「真美」であることを忘れていた。

子どもの頃、真美という名前が嫌だった。リナはそんなわたしの悩みを理解しようとはしなかった。彼女は多分、わたしの「真美」という名前を子どもらしい愛し方で愛してくれていたのだろう。だからわたしの悩みを解決しようなんて思ったこともなく、ただ、子どもの頃も大人になってからも、時々、「真実の真に、美しいの美、真に美しい、真実は美しい、両方だね、真美は」と言ってくれていた。リナは小学校の頃からのわたしの親友だ。
日本人離れした彼女はわたしの憧れで、ときどきわたしは親友なのに嫉妬したり、やっかんだりした。数年ぶりに逢うリナは相変わらず綺麗だった───リナみたいだったら、ユウはわたしに飽きたりしなかったんだろうな。
お姫様扱いしてくれて、なんでも頷いてくれて、心配してくれて、わたしを第一に考えてくれて───いまよりもずっと未熟だったわたしは、よく誰かとわたしを表面的なもので比べて他人の心もじぶんの心も乱暴に片付けてしまうことがあった。

その前の週の日曜日、メッセージの通知音にわたしは引きずられた。
ユウからかもしれない───そう思いたかった。でも、違うのもわかっていた。

「来週、鎌倉芸術館でクラシックのピアノリサイタルがあるんだけど、チケットが一枚余分にあるから一緒に行かない? 無名のピアニストだけど」

リナからのメッセージだった。彼女はリサイタルにわたしをそうして誘ってくれた。わたしはメッセージが彼からではなく、親友からだったことに心底がっかりしながら、返信することに少し悩んだ。
ユウからの連絡に気付けないかもしれない、とか、ユウから浮気してるんじゃないか、と思われないか、とか。

「行こうかな」

多分、こうして休日にユウ以外の予定を入れるのは半年ぶりかもしれない。
「夕方の開演まで、長谷寺付近を歩きたい」というリナの意向から、わたしたちは堅い蕾が木々に僅かながらの希望を見せる冬の長谷を少し歩いた。わたしたちの頬を撫でていく海からの風は塩を含み湿っているのにとても乾いている。長谷の細い入り込んだ道では鳥の囀りが聴こえてきて、それは立ち寄った小さな喫茶店の中にも届いた。

リナは中学校を卒業する頃、両親が離婚して、鎌倉から父親と東京の国分寺に引っ越してしまった。今日だって国分寺からわざわざ来ている。
何度か国分寺に住むリナを訪ねて、二人で吉祥寺まで行き、井の頭公園の前で焼き鳥を食べたり、深大寺の植物園でお蕎麦を食べたりした。「スワンボートに乗りたい」、とわたしが言うと、リナが「別れるからダメ、私たちは永遠だし」、とふざけて返してきたり。よく覚えている。たまにリナも鎌倉に帰ってきた。鎌倉の母親とリナが会うことはなかった。

50代くらいの女性のウェイトレスがわたしたちにコーヒーを運んで来た。その優しそうな顔を見ていたら、リナの母親と重なった。植物園で「何だろうね、あのひととは会いたくないんだよね、一応母親だけどさ」と、顔を曇らせることなく、まるで知らないひとのことを話すみたいに、リナが彼女の母親についてそう言っていたのを思い出した。

「そう言えばさ、ここって昔から変わらないね」
とリナが雨の降り始めた外を見ながら言った。
植物園をふたりならんで歩いていた時もこんな雨の日だったと思う。

「この喫茶店ってふたりで来たことあったっけ?」
「ううん、店だけでなくてさ。何だろうな、街があんまり変わらないというか、時間が止まってるというか。匂いとか風だけが動いてる」
リナはときどきロマンティストになる。
わたしがおなじことを言ったら、多分、様にならない。けれども、リナが窓の雨を見ながらそんな風に言うと、どうしてだか雨の音をずっと聴いていたくなる。

「そうだ、真美の彼氏ってどんなひと?」
わたしはスマート・フォンのカメラロールを開き、お気に入りにしてるユウと由比ヶ浜で撮った写真を見せた。
「ふうん、なんだか優しそうだね」
写真は去年ので、それを最後に一緒には一枚も撮っていない。ユウのInstagramのストーリーズには今もいつも最新のユウがいる。わたしの知らないユウ。わたしはいいねもしなくなった。わたしとは連絡取らないのに、ストーリーズは更新するんだな、と思うと、虚しさが押し寄せてきて嫌だった。

「雨だね」とわたしが言う。
「うん、雨だね」とどこか寂しそうに雨を見つめながらリナが言う。
「リナは彼氏とか、どうなの?」
「あは、別れちゃってさ」
親友の不幸にどこか安心するわたし。

「また、新しいひと、リナならすぐだよ」
適当なことをわたしは言う。でも美人のリナならきっとそうだ。二十代はそんなもんだ。中身なんかよりやっぱり外見なわけで、もうあと二年もしたら三十になるけど、それでもわたしたちはまだ二十代だ。

美しさは女性の「武器」であり、装いは「知恵」であり、謙虚さは「エレガント」である──ココ・シャネルがそんなことを言った。
多分、知性、エレガントが揃って武器、全体的なひととしての美になるんだろうけれど、そんなのわたしにはまだ無理だった。

だらだらとユウと付き合っているのかいないのかわからない状態なのに抜け出せないのも、ひとりであることを確定されるのが嫌だからかもしれない。そのくせ、じぶんはひとりでもやっていける、とも思っていた。向こう見ずで、世間知らずで、傲慢で自己中心的、感傷だけは一人前な、ふつうの二十代だ。

「彼はさ、秋くらいに、事故でいなくなっちゃったんだよね、それで、そのあと、妊娠中なのがわかって、いま、実は4ヶ月なんだ」

どういうことか、すぐに理解できなかった。

「リナが?ということ?そうなんだ」
「そう、そうなんだよね」
「そうなんだ」

母になって、じぶんの母親のいる街で、お腹の子の父親と二人でリサイタルを聴くはずだったんだろうか。

「あ、母親に彼を会わせるつもりはなかったし。あのひととはもう関係ないから。たまたまなんだ、リサイタルが鎌倉だったのは」
「そっか」───「でも会ったらいいのに」、と言いかけたわたしは、リナの表情を見てやめた。
店内では、ひばりのような小鳥の旋律のピアノ曲が流れていた。外の鳥の囀りと雨の音とピアノの音色がポリフォニーを織りなしながらわたしの心の底に降り積もっていった。
「この曲、何だろう?」とわたしは話を逸らすかのようにリナに尋ねてみた。
「グリンカのひばりだよ、エフゲニー・キーシンが弾くこの曲が私好きなんだ」
「よく知ってるね」
リナは何でも知ってる。何でもわたしより色々なものを多分抱えてそれをしっかりと受け止めたくて彼女なりにたくさんのことを学んできたのだろう。だから薄っぺらい上部だけの教養ではなく、彼女の言葉はすべてに深みがあったりもした。
「でもね、私はひとりじゃないからって強がる気持ちと、やっぱり助けて欲しい気持ちと、なんだろう、これから、どうなっちゃうんだろうって思ったら、真美と聴きたくなって。それで誘ったの。久しぶりに会ったのに、なんだか暗い話でごめんね、そろそろ大船向かおうか!」
そう言うリナは少し頼りなさそうに見えた。
立ち上がるリナのお腹を見ると、少しだけ膨らんでるようにも思った。神さまがもしもいるならあの曲を今日聴きたい。神さま───宗教なんて信じなかったのにふとそんなことを思った。

冬の雨は冷たい。海沿いはとくに風も強い。リナの盾になるようにして、わたしはリナの前を歩いた。

ひとりじゃない。リナにはわたしがいるし、わたしにはリナがいる。嫉妬したりやっかんだりするけど、いつまでもわたしの憧れでいて欲しい。だって、わたしの大事な親友だ。

細い雨の中、長谷駅までの住宅街を歩いた。いくつかの庭先で梅や木蓮の白い蕾や開きかけた花が仄かな香りでわたしたちに寄り添った。風が運ぶさまざまな香りは、わたしに子どもの頃の情景を記憶の底から表面に押し上げてくるときがある。リナの庭先には梅と木蓮と沈丁花があった。今でもあるのだろうか。その庭先で、リナの母親とわたしたちは、よく、なわとびをしたり、本を読んでもらったりした。赤毛のアンを最初に読んだのもリナの母親に借りたのをその時思い出した。リナは林檎の花のアーチに憧れていて、庭に林檎の木がないことを嘆いていた。リナが彼女の母親をどうしてあんなに憎むのか不思議だった。それは今もわからないことのひとつだ。彼女たちはそれぞれに何かしらの傷があってそうなったのだろうけれど。

鎌倉駅でJRに乗り換えて、大船駅から外に出ると、またしばらくまっすぐ歩く。小雨だった雨は本降りになっていた。病院を通り越してしばらくすると、鎌倉芸術館が見えてきて、わたしたちは自然と早足になった。会場内の席はまばらで、湿気のある雨の匂いがした。

開演し、聞いたことのない名前の若い女性ピアニストが自信なさそうにピアノの前でおじぎをした。フランスかロシア出身なのだろうか。シモーヌ・斉藤。なんだかふざけてる───チケットに載っていた名前だけ見た時はそう思った。

プログラムはグリンカ(バラキエフ編曲)の『The Lark(ひばり)』ではじまった。あとはブラームスとベートーヴェンのソナタだった。
演奏が始まり、わたしがその奇跡に気が付いたのはホールを出てからだ。舞台袖からぎこちなく出てきておじぎしたときのおずおずとした小鳥みたいな彼女は消え去り、雄大で自信に溢れた音の粒の連続と感情と郷愁が波濤のように押し寄せるかのような旋律のみごとな立体感ある音楽がくっきりとホール全体に立ち昇り、遥か彼方まで響き渡った。

アンコールに、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』を彼女は演奏し始めた。
彼女の、美しい湖面のような、不思議な灰緑の瞳が濡れているように見えた。
色々な感情が揺さぶられたわたしは8小節もしないくらいで涙が止まらなくなっていた。隣に座るリナも泣いていた。

リサイタルが終わり、わたしたちは大船駅で別れた。
構内で、新宿方面のプラットホームに消えていくリナの背中をわたしはずっと見守りながらリナが国分寺に着くまでに雨が止んでくれることを祈っていた。

家に帰ってくると、両親たちはもう寝ているみたいだった。エアコンの消された寒々しい自分の部屋に入ると、そこは取り残された世界のように思えた。何もかもから解放されたかった。仕事も、残骸みたいな恋にしがみつくわたし自身からも───そんなことを悩むのは恵まれている証拠なのもわかっている。ベッドで眠れる、エアコンをつければ暖かくなる部屋、両親たちがどこかの戦場に送られるだとかもない、戦争のことで身内や友人同士の意見が対立して縁を切るだとかもない。少なくとも、今のところは。
すべてからユウを消したくて、スマート・フォンを開き、彼の名前を削除した。
空調を切ったまま、ひんやりとしたベッドに潜り込む。ぎゅっと目をつむりながら、純粋な静寂の中、沈黙は休符と同じなんだろうな、と不意に思えた。

つぎの音が生まれるまでの沈黙、そこにある感動と、それがあるからこそ次の音の感動が呼び覚まされるのかもしれない───あの子が無事に生まれてくることがいまはわたしの待つ意味かもしれない。

わたしたちにはこの土地がある。リナにだってここは故郷で、リナから生まれてくる子の土地でもある。いつか、リナが母親と再会できたらいいのに。

数年前のことを思い出しながら、冬の晴れた夜の空にチケットを透かしてみる。リナが彼女の母親と再会したのは、彼女自身の葬儀でだった。彼女は女の子を遺してあっけなく天に墜落してしまった。女の子は彼女の母親が引き取った。どうして無名のピアニストがあのプログラム構成にしたのか、憂いを瞳にたたえたのか、何となくわかる気がした。
あの時の奇跡はただわたしが奇跡と名付けたかっただけなのかもしれない。すべての偶然は不条理によって一瞬でどこかにさらわれていく。それでもひとまとまりの偶然が時々わたしに名前を与えさせようとする。
星々が静かに囁く。
東の空が少しずつ夜の侵食からわたしを朝へと導いていた。

二月の高い空の下、わたしは友人の小さくとも暖かく汗ばんだ手を握り、太陽を背にして動物園を歩くだろう。

スズキヒロ

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