きみはジュネを抱えて 第二話
ぼくはタバコが吸いたかった。喫煙の欲求はこのところほとんど感じていなかったんだけど、今は無性に吸いたかった。明日の一食を飛ばしてもいいから、一本のタバコがほしかった。ぼくは立ち上がり、ミネラルウォーターを飲む。そして、空想のタバコを取り出して、空想の火をつける。空想の毒物で肺を満たして天井に息を吹きかける。この動作を何度か繰り返すと、欲求は徐々におさまっていった。心臓が鼓動を打っていた。静かな部屋の中で、自分の心臓の音がよく聴こえた。
学生時代、渋谷のフレンチカフェでアルバイトをしていたぼくは、千春とシフトが被ることが多かった。といってもフリーターだった千春は、年中シフトに入っていたから当然といえば当然だ。
学生が中心の職場だったから、千春は浮いていた。もし千春が学生だったとしても浮いていたと思う。化粧は最低限、髪の毛は少年のように短く、冬でもビーチサンダルを履いていた。決して人当たりが悪いわけではなかったけれど、学生組と仲良くなることを避けているようなところがあった。
千春はバイトの休憩中によく小難しそうな本を読んでいた。本を読んでいるときの千春は、様になっているというか、しっくりくる感じがした。その姿はキース・リチャーズとフェンダー・テレキャスターのような一体感、親密さがあった。
ぼくは千春と休憩が被ると、読書の邪魔をしないように静かにしていた。狭い休憩室なのに、お互い無言でいても不思議と気まずさは感じず、千春が放つ親密さに含まれているような気がして心地よかった。
ある休み時間に千春は、制服の上にカーディガンを羽織って、古い本を抱えるようにして読んでいた。千春はいつも通り、ぼくなんか存在しないかのように本を読んでいたんだけれど、彼女の読んでいた本の作者の名前が目に入って思わず話しかけた。
「ねえ、それってジャン・ジュネ?」
「ジュネを知ってるの?」
千春は「あんたなんかがジュネを知っているなんて意外」という顔を隠さずにぼくに言った。
「デヴィット・ボウイがジュネを題材に曲を書いているんだ。『ジーン・ジニー』っていう曲なんだけど」
千春は本から視線を外して、切れ長の目をぼくに向けた。
「パンクの女王パティ・スミスの初ライヴはジュネと犯罪に捧げられたんだ。それでジュネという名前は記憶してる」
ぼくがそう言うと、千春はふうんと頷いて「本は読むの?」と訊いた。
「正直、全然読まない。音楽を聴くことが好きなんだ」
「演奏することに興味は?」
「いや、どうだろう。そこまでないかもしれない」
そこでぼくたちの話は終わった。だけど、この話がきっかけで、千春がぼくに心を許し始めたのは間違いない。次にシフトが一緒になったときに彼女は「これなら短いし読めると思う」と言って、ぼくにアルベール・カミュの『異邦人』を貸してくれた。ぼくは千春に認められたような気がして嬉しかった。
千春は小説を書いていた。ぼくは彼女が書いたものを読んだことはないけれど、自由について、つまり、とりとめのない非合理的な魂を書いていたに違いないと思っている。彼女の住む家に行ったとき、ぼくは彼女の思考の一端に触れた。
彼女の住む一軒家は井の頭公園の脇という最高の立地だった。彼女の祖母が亡くなったのを機に、一人で住むようになったらしい。家は大きく、そのまま小津安二郎の映画のセットとして使えそうなぐらい古く、立派だった。
「古臭い家でしょ?」
「いや、雰囲気があるよ。そういえば両親は?」
「親は練馬のマンションに住んでる。あんまりここが好きじゃないんだと思う」
「マンションなんかよりこっちの家のほうがずっといいと思うけどな」
ぼくは持ってきたデヴィット・ボウイのレコードとポータブル・プレーヤーをテーブルの上にセットした。そして、レコードを聴きながらアルバイト先でもらったガメイ種で造られたフルーリーというワインを飲んだ。
「私、学生が嫌いなんだ」
千春は唐突にそう言った。
「どうして?」
「だってバカみたいじゃない?」
「うん、まあそうかもしれない。でも、未来のことを考えたら学校ぐらいは、とか思ったりもするじゃない」
「それってどういうことなんだろう。私にはわからない」
「未来の選択肢を広げるってことさ。ほら、就職とかさ」
「それ、本気で言ってるの?」
そう言って千春はフランス産のタバコを取り出して口にくわえて火をつけた。
「本気というか、どうだろう。わからない」
「私は合理的なことってあまり信じていない」
「じゃあ、千春は何を信じているの? 本をたくさん読んで小説を書くということだって、同じことなんじゃないの?」
ぼくはちょっとだけムキになって千春に言った。
「本を読むことや書くことに理由なんてないな。強いて言うなら、たまたま。……みんな偶然の力を信じていない気がする」
彼女の言う「みんな」には当然ぼくも含まれているはずで、そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。ぼくはせわしなくセブンスターに火をつけた。
「現実では、偶然です。たまたまです。なんて言うと相手にされない。会社の志望動機を聞かれて、偶然です、なんて言わないよね? 本当は偶然かもしれないのに。だから私たちは嘘をつく。御社の社風に惹かれて、みたいな、思ってもいないことを言わないといけない。嘘を言うほうが正しくて、本当のことを言う人はどんどん現実から外れていく」
「……本当に御社の社風に惹かれたのかもしれない」
「それはもっとバカじゃん」
そう言って千春は笑った。ぼくもつられて笑った。
「まあ、半々じゃない? 本当に社風に惹かれたとしても、もう半分は嘘なんだよ。今朝食べたトーストだって、トーストじゃなければいけない理由なんてない」
「たまたまトーストがあったから?」
「かもしれないし、食パンを買うときに、明日の朝にトーストを食べたいな、と思ったのかもしれない。安かったから、というのが理由かもしれないし、冷蔵庫のジャムを消費したかった、という理由もあるかもね。ちょっとずつが本当で、ちょっとずつが嘘なのかも」
千春はそう言って赤ワインを口に含んだ。デヴィット・ボウイは「ウェイターを呼び止めてカミソリを食った」と歌っていた。
「私は理由なんかない、と思いたい」
彼女が言いたかったことは、直感を信じろ、ということなのかもしれないし、理由に固執するな、ということだったのかもしれない。どちらにせよ、彼女の言っていることは子どもっぽかったし、大人になってから必ず苦労するだろうな、とは思った。ぼくとしては、嘘の世界に留まっていたほうがずっと楽に感じてしまう。「本当のこと」はぼくにはつらい。
ぼくたちはレコードを聴きながらワインを飲み、タバコを吸った。ぼくは千春の隣で軽やかな気持ちになっていった。それはアルコールの作用なのか、千春によるものなのかはわからなかったけれど、現実を離れたような心地いい時間だった。
当時交際していた恋人が嫉妬深かったせいで、千春の家に行ったのはそのときの一回だけだった。恋人はヒステリックに、もうあの女と会わないで、とぼくに言った。ぼくはレコードや本の貸し借りをしていただけだ、と説明したけれど恋人は許さなかった。
ぼくは千春に漠然とあこがれのようなものを感じていたけれど、二人の仲は深まることがないまま、借りていたカミュを返すこともなく千春はアルバイトを辞めてしまった。交際していた恋人は「好きな人ができた」と言ってロックバンドのギタリストと同棲を始めた。
ぼくは輸入食品の会社に就職した。
自明であると思っていた物事が崩れ去ったときにぼくはどうするんだろう?
それなりの大学に、それなりの会社。身体は健康で、貯金もまずまず。ぼくにしては上出来な人生だと思う。もしぼくが、大学を卒業できなかったり、就職活動に躓いていたり、病気になっていた場合、これ以下の人生だってありえたはずだ。だけど、これ「以下」というのはどういうことなんだろう? 「以上」というのは? いったい何と比べて?
ぼくに必要なものは無駄なものなんじゃないのか? 例えば音楽を聴くこととか。レコードは今までぼくを助けてくれた。それは間違いない。レコードを聴くことに意味はあるのか? おそらく意味はない。だから人生には意味がない。だからこそぼくの人生には現実味がある。そういうことじゃないのか?
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