小説 『ゴミ溜めの中に咲く花』 我妻許史

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ゴミ溜めの中に咲く花

 無職の朝は早い。僕はいつも七時前にもぞもぞと起き出して、コーヒーを淹れる。それから煙草を二本続けて吸って、バスタブに湯を張る。恋人にコーヒーとトーストを用意して、彼女が仕事に行くのを玄関で見送る。それから僕は湯に浸かる。今日やることを考える。

 ハローワークに行くのは来週だ。今日は誰かに会う予定もない。というか、今の僕には食事の準備をする以外にタスクと呼べるものはほとんどない。

 これだけ暇な時間があるのは大学を中退したとき以来かもしれない。あのときはとにかく時間があった。そして若さもあった。昼過ぎまで寝て、アルバイト仲間や、フリーターの連中と騒いで、好きな音楽を聴いて、女の子とデートをして、同年代の連中が必死に勉強している間、僕は貴重な時間をせっせとドブに捨てていた。

 そのときつるんでいた連中は全員残らず就職をし、結婚した。時代は変わっていく。ハレルヤって感じだ。マジで。

 僕だけが未だに学生のときと同じ気分だ。肩書もなく「なにものでもない」。

 煙草を買うため外出をする。僕が吸っている煙草はセブンイレブンで「119番」の番号が振られていて、煙草を買うときは店員さんに向かって「119番の煙草をください」と言わなければならない。

 今日はそれがなんだか嫌だった。店員さんとコミュニケーションを取るのがどうしてもしんどいというか、ダルいというか……。

 僕はセブンイレブンを出て、自動販売機が併設されている煙草屋へ向かうことにした。

 家から一番近い煙草屋まで来ると、そこにあったはずの自動販売機はなくなっていた。先月来たときには二台ぐらい並んでいたはずなんだけど。

 窓口に座っている婆さんから買おうか? いや、それじゃコンビニを回避した意味がない。妙な使命感が湧いてきた僕は、駅前まで足を伸ばすことにした。

 駅前の酒屋には、変わらず自動販売機が併設されていた。ただ、自分の吸っている銘柄はなかった。僕はここを去って次を目指した。あそこなら、と葉巻や珍しい海外の煙草も扱う専門店に行ってみた。そこにも自動販売機はなかった。二十代の頃に何度か利用したことのあるカラオケボックスの並びに煙草屋があったはず、と行ってみたけれど、そこは煙草屋自体がなくなっていた。ほんの数年前はどこにでも自動販売機があった気がするんだけど。仕方がない。時代は進む。時代は僕に了解なんて求めない。そうだ、あいつらは知らん顔で進んでいく。

 結局は隣町まで歩いて自分が吸っている銘柄を手に入れることができた。本当はソフトパックじゃなくて、ボックスが良かったんだけど。まあ、あるだけマシだと思おう。僕は手に入れた煙草をコートのポケットにしまって、高い空に向かってのびをした。大通りや、脇道、小道を散々歩いて煙草を手に入れた僕は「仕事をした」気分になっている。いい気なもんだ。

 せっかく隣町に来たんだからと、僕は大型書店に入ることにした。入ってすぐにある一番いい棚を見ると、実用書がどっさりと平積みされていた。隣を見ると、ビジネス本がずらっと並んでいる。哀しい風景だった。きっと、売れるからここに並べられているんだと思う。だけど、いったいこういう本をどんな人が買うのだろう。僕はこれらの本を買う人のイメージが湧かなかった。多分、不幸な人だろう。

 いや待てよ。僕は考える。自分は不幸ではないのか? 三十五歳で定職に就かず、学歴も資産もなにもない。傍から見たら僕は間違いなく不幸にちがいない。

 僕は実用書を一冊手に取ってパラパラと内容を見てみた。そこには「五年後、十年後を予測しろ、それが勝つ方法だ」というようなことが書いてあった。明日の予定もない僕には途方もないことに思えた。もしかしたら僕がもっとピュアだったら心に響いたのかもしれないけれど。

 結局、このピカピカの書店では何も買わずに家の近所にある行きつけの古本屋へ行くことにした。

 先週、知り合いから頼まれてデイサービスのデータ入力の仕事をした。その知り合いから「少ないけど、振り込みました」というメールが届く。ぼくはすぐにお礼を返信した。

 デイサービスは幼稚園と似ていた。壁には大きな文字で童謡の歌詞と振付が貼られていて、テーブルには折り紙が置いてあった。カリキュラムを見ても、歌、運動、おやつ、散歩、といった内容で、「自立」することが目的となっているようだった。

 入居者の希望で多いのは「同年代の人たちと話をしたい」「一人で風呂に入りたい」「なにか趣味を持ちたい」といったもので、「おぎゃあ」と生まれて、親に面倒をみてもらって、やがて自分で稼ぐようになって、車を買って、家を買って、リタイアをしての最終地点が「同年代の人たちと話したい」に行きつくということに、僕はけっこう感じるものがあった。

 どうすればいいんだろう、ということもないけれど、ここには考えさせられる何かがあった。例えば「幸福」について、例えば「人生」について。僕も五年後、十年後を予測して「勝た」なければならないのかもしれない。だけど勝つというのはどういうことなんだろう。そもそも向上とはいいことなのだろうか? プラスを積むことは本当にいいことだと言えるのか? 多分、半分はそうだと思う。でも、もう半分では、向上イコール善とする単純な図式を否定したい自分もいる。「役に立つ」から「やる」ということには何か「嫌な感じ」が潜んでいる。全ての人がそれを望んでいるだろ? という傲慢な目線が嫌なのかもしれない。自分の頭で考えることを拒否して、示された「最善」を盲目的に目指す様が滑稽に感じるのかもしれない。まあ、こんなことを考えているから僕はいつまでたっても無職なんだろう。

 僕は行きつけの古本屋でジャック・ケルアックの『孤独な旅人』を三百円で買って、家に帰った。昼はうどんを茹でて食べた。そしてソファで一時間ぐらい昼寝をした。

 冷蔵庫と台所の戸棚を調べて、今夜の食事のメニューを考える。玉ねぎとにんじんとパスタ麺がある。セロリと挽肉とトマト缶を買ってきてボロネーゼを作ろう。

 スニーカーを履いて外に出る。空は高く、空気が澄んでいる。一月の匂いだ。午前よりいくらか気温が高い気がする。マフラーはいらなかったかもしれない。

 どうして? と人に聞かれることがある。どうして大学を辞めたの? どうして会社を辞めたの? どうしてぷらぷらと無駄なことばかりしているの? 僕はその都度、真剣に考えるけれど、答えはいつも曖昧だ。たまたまだ、ともいえるし、なんとなく、と答えてもいい。物事はシンプルにはできていない。様々な理由がちょっとずつ混ざっているし、絶対的なものは存在しない。

問:駅に行く時にいつもは真っ直ぐ進むのに、今日はなぜ右折したのですか?

答:わからない

 その日の天候や、気温、着ている服や、時間帯によっても影響を受けるはずで、その全部を説明することはできないし、相手もそれを求めていない。だから「なんとなく」と言ったり、納得してもらう適当な理由(嘘)を話さなければならない。

 僕はいつもよりちょっと高級なスーパーで、ボロネーゼの材料と、安いピノ・ノワールと、キリンラガーを買う。持ってきたバッグに買ったものを入れて、缶ビールだけをコートのポケットに突っ込む。そして近くにある広い公園まで行く。

 小学生ぐらいの男の子が、お父さんとキャッチボールをしている。中学生ぐらいの少年たちは、サッカーボールを蹴っている。若いお母さんたちが井戸端会議をしているそばで、ちっちゃな子どもたちは、やんちゃに走り回っている。爺さん、婆さんも元気に腕を振って歩いている。僕はベンチに座ってビールを飲む。こうしていると、世界の営みから外れてしまったような、どこにもいない人間になったような気分になる。

 ビールを半分ぐらい飲んで、喫煙所に行くと先客がいた。若い女性が美味そうに煙草を吸っている。女性はコートの下にパブリック・イメージ・リミテッドのTシャツを着ていた。へえ、と僕は思った。セックス・ピストルズ解散後に、ジョン・ライドンが結成したポストロックバンドだ。その音楽性はまさにロックの極北ともいえるもので、今まで作られたどの音楽にも似ていないオリジナルなものだった。

 彼女はパブリック・イメージ・リミテッドが好きなのだろうか? それとも、デザインが好きで着ているのだろうか? ぼんやりそんなことを考えていると、彼女は煙草をもみ消して、喫煙所を出ていった。

 ジョン・ライドンは「俺たちはゴミ溜めに咲く花だ」と言った。美しい言葉だ。

 ピストルズ期の発言なのか、それ以降の発言なのか。どういった文脈で言ったのかは曖昧だけど、完璧に彼の哲学を表しているように思う。

 子どもたちは大声で叫びながら公園を走り回っていた。疲れ知らずの子どもたちを見ていると「善きもの」を感じる。できるなら永遠に、この世界を走り回っていてほしいと僕は願う。

 ボロネーゼのソースを煮込んでいると、恋人が帰ってきた。パスタを茹で始めて、ビールとグラスを彼女の前に置く。彼女は僕に訊ねる。

「今日はどんな一日だった?」

「とくに何もなかったよ」

 ふうん、と言って彼女はビールを飲み始める。

 何もなかったけれど、何かはあった。それを正確に説明するのは難しい。

 僕はパスタの仕上げに取りかかる。そして、明日が今日と同じくらい晴れていたら、ゴミ溜めに咲く花を探しにいこうかと考える。

我妻許史

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