エッセイ 『ニューヨークの亡霊と花たち』 我妻許史

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ニューヨークに行ったことがない。ロンドンにもローマにも行ったことがない。沖縄に行ったこともないし、四国にも行ったことがない。東京に住んでいながら、関東六県では茨城と群馬は未だに未到の地だ。

それどころか東京でも山手線で降りたことのない駅がある(今調べたら御徒町、田町、高輪ゲートウェイで降りたことがない)。二十年以上住んでいる杉並だって知らない場所はきっとあるだろう。


「きみ、本当に衛生士? めっちゃ器具の扱いうまくない?」
 俺の頭上で歯科医が助手をナンパしている。
「どこの学校? へえ、◯◯さんと一緒かー」
歯科医は俺の口腔内をいじりながら言った。視界が塞がれていて確認はできないけど、彼の視線が助手に注がれていることは間違いないだろう。
麻酔の針は何度も外れ、三度目の注射が俺の歯茎を刺す。そのせいで俺の顔面はラリっている。


ニューヨークには行ったことがないけれど、俺はニューヨークを知っている。ロウアー・イースト・サイドも知ってるし、グリニッジ・ヴィレッジも知っている。CBGBも、マクシズ・カンザス・シティも、チェルシー・ホテルも、セントラル・パークの池のアヒルも知っている(彼らが冬にどこで過ごすかは知らない)。5ボロウの地理も知ってるし(ニューヨークの5つの区、マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタテンアイランド)、エッグ・クリームも知っている。

俺はアートを通してそれを知った。J.D.サリンジャー、トルーマン・カポーティ、ポール・オースターの小説、ルー・リードの曲、パティ・スミスの伝記や、テレビジョン( R.I.P.トム・ヴァーレイン!)やラモーンズなどのニューヨーク・パンクの映像、ジム・ジャームッシュの映画、アンディ・ウォーホル、ジャン・ミシェル・バスキアなどの作品から……。

俺たちはオースターの作品にブルックリンが登場しないことや、ルー・リードがニューヨークについて歌わないという姿を想像することができない。彼らは宿命的にニューヨークと結びついている。

俺はニューヨークの精神を体現しているアーティストたちの目を通して、空想のニューヨークを歩く。

「いてッッッ!」

叫ぶ俺の口腔内に追加の麻酔が打たれる。医師はにっこりとほほえんで(見えないわけだが)、「よし、完璧だ」とささやいた(おそらく助手に)。

俺の心は再びニューヨークのワイルドサイドを歩く。

ダウンタウンを行ったり来たり、ニューヨークの亡霊と花たちの間を、クスリの売人や、ボヘミアンの間をすり抜けて、俺はぶっ濃い自由を吸う。ニューヨークは、雑多で、猥雑で、イキのいい会話が飛び交い、ミステリアスで、マジカルだ。

呼吸音、呼吸音、呼吸音、花たち。

音楽が鳴っている。ネオンサインが網膜を刺激する。ぶっ飛ばされたサウンドスケープを突っ切って、俺は光に手を伸ばす。熱気はどんどん上昇して、亡霊たちは燃えて輝く。

顔に乗せられたタオルは外され、現実の照明が俺の目を刺す。

「お疲れさまでした」

医師は、はにかみながら「今日はたくさん痛くしちゃってごめんなさい」と言った。

とても、とても爽やかな笑顔だった。

俺は麻痺した顔面を駆動させて「ありがとうございました」と言った。

新宿の夜は寒かった。通りを歩く人たちも寒そうに身を屈めながら速足で歩いていた。この人たちはいったいどこに向かって歩いているのだろう? 家に帰る人もいるだろうし、これから仕事に行く人や、遊びに繰り出す人もいるだろう。なんだか、この人たち全員に人生があるなんて信じられなかった。

アルタの前で立ち止まって俺は空を見上げた。ぴかぴかに輝く「かねふく」の看板が見えた。俺は無性に笑いたかった。だけど、麻酔の効いた口はいうことをきかなかった。そして、その事実に再度笑いそうになった。

名前の知らない人間たちが、立ち止まっている俺の脇を通りすぎていく。何人も、何人も。それぞれの目的地に向かって。それぞれのスピードで。

我妻許史

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