美術館について考えた
細い道を歩いているとき、談笑する二人組が前方からやってくる。あなたならどうする? そう、避けますよね。僕は蟹のような姿勢になり、息を止め、腹を引っ込ませて、二人を通す。あるいは歩道と車道の間にある縁石の上にのぼってやり過ごす。
繁華街に出るとこういう事態が頻出する。避けるスペースがないと、入らなくていい店に入ったり、路地の陰や私有地に半身だけ侵入したり、諦めてUターンすることになる。
僕は年の割に目がいいので、前方から人が来ると、先に避ける。当たり前のことだ。だって、真っ直ぐ歩いていたらぶつかるからね。ぶつかったら不快だし、最悪トラブルになることだってあるだろう。だから、数メートル先から人が歩いてきたら、避けることにしている。
ただ、ときどき、どうにも割り切れない気持ちになることがある。
たとえば、すれ違うには狭すぎる道を歩いているとき。前方から三人組がやってくる。僕は蟹のように横歩きになり、忍の者のように気配を消し、爪先立ちでやりすごす。きっと道を譲られたほうはこう思っているはずだ。「自分たちがおしゃべりをしながら道を歩きたいという我を通したせいで、あのおじさんを蟹にさせてしまったなあ。悪いなあ」と。
……そう信じたくて、僕はさりげなく振り返る。
「マジでやべえよな」「うん、マジやばい」「ウケる。やばくて」「やばくてウケる」「あるいは、やばくて死ぬ」「わかる、死ぬ」「死ぬ」こんな会話が交わされているのを聞いたとき、死ぬ。
こういう絶対道譲らないマン(&ウーマン)に遭遇すると、気持ちが暗くなり、レディオヘッドの「クリープ」を熱唱したい気持ちに駆られるが、さすかにそれは憚れるので、飲酒する。飲酒代を絶対道譲らないマン(&ウーマン)に請求したいところだけれど、見知らぬおっさんから請求書を渡されたら、マン(もしくはウーマン)はきっと憤慨し、僕のほうに支払い義務が生じてしまうことになるだろう。司法の判断はときに弱者に厳しい。
思い通りに歩きたい。僕の希望を叶えてくれる場所がある。それが、美術館だ。美術館では、展示物が主役。我々は順路に従って、静かに歩く。それだけで、みんなが自然に譲り合う。絶対道譲らないマン(&ウーマン)でさえ、ここでは順路に従う。静かで、清潔で、快適だ(死ななくて済む)。
僕は旅行に行くと必ず美術館に行く。どこの都市に行ってもたいてい市立か県立の美術館があるし、行けば、知らない作家の展示であってもだいたい満足することができる。それに、美術館はたいてい空いている(東京の一部の美術館は異常に混んでたりするけれど)。
過去に一番笑った美術館体験は、上海のアンディ・ウォーホル展だった。会場は上海万博跡地の巨大な施設。展示数もスケールも桁違いと聞いて身構えていたけれど、行ってみたら観客は数人しかいなかった。
「え?」
この感じ、どう伝えたらわかるだろう。PayPayドームで観客一人で野球観戦。アクロス福岡で一人でクラシック鑑賞……。ちょっとうまく説明できない。とにかく、これにはびっくりした。不安になるほど広い会場だったけれど、結果的に贅沢な体験ができたと思っている。
福岡で初めて行った美術館は、福岡市美術館だった。大濠公園の中にあるこの美術館はロケーションがいい。近くに飲食店も多いし、観終わった後にビールを飲みながら余韻に浸ることができる。
福岡アジア美術館もいい。ユニークな企画が多く、展示規模もコンパクトでちょうどいい。日常の隙間から、さくっと非現実に行ける感じ。
久留米市美術館は驚いた。噴水を中心に広がるバラ園、美術館の裏手には感じのいい日本庭園がある。なんて贅沢な空間なんだ! 肝心の美術館も素晴らしい。「響きあう絵画展」では、カンディンスキーが観れたし、「ビアズリー展」では網羅的にコレクションを観ることができた。大満足である。
久留米に行くときは、僕なりの定番コースがある。まず美術館。次にMINOU BOOKSで本とサブレを買う。最後に酒蔵 松竹で、ダルムとぎんちゃん焼きをつまみに一杯。至福である。
こういう日は、絶対道譲らないマン(&ウーマン)に遭遇しても涼しい顔をして、縁石に乗ることができる。

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