続・好きな場所について考えた
そもそも僕は静かな場所が好きだ。東京に住んでいたときも、行くのは近所にあった桃井原っぱ公園や、八幡神社、こぢんまりとした飲み屋、古本屋ばかりで、都心には極力近づかないようにしていた——と、ここまで書いて手が止まる。上京したばかりのころは、新宿が好きだったことを思い出したからだ。
アルバイト先が新宿だったし、買い物をするのも、飲み食いするのも新宿。あのころの僕は、ほぼ毎日、新宿の朝と夜の空気を吸い込んでいた。
朝六時五十分に寝転ぶホームレスに移動してもらって、アルバイト先の喫茶店のシャッターを開ける。夕方、仕事が終われば、新南口のフラッグス・ビジョンに入っているタワー・レコードで、気になるバンドの新譜を試聴する。缶ビールを買って、サザンテラスや、都庁方面に向かってダラダラ歩く。文化服装学院前にあるモニュメント付近に腰を下ろして、ブランキー・ジェット・シティの“小麦色の斜面”の歌詞「俺は 今 新宿で立ち止まってる/想像力のカプセルを 一つ飲み込んで」を口ずさみながら、学生たちを眺める。調子がいいときは大ガードをくぐって、歌舞伎町まで足を伸ばす。猥雑な空気に身を浸しながら、ただ、流れ歩く。
西新宿のレコード屋にもよく行った。ニルヴァーナや、ソニック・ユース、マイ・ブラッティ・ヴァレンタインの劣悪なブートレグのCDや、VHSを買って、一喜一憂していた(後悔することのほうが多かった)。
二十代前半、僕は新宿に酔っていた(そういえば、初めて書いた小説は新宿の夜を徘徊する少年の話だった)。きっと、地元で、田んぼと桃畑に囲まれながら生活していたから、その反動だったんだと思う。その後、僕は渋谷で遊ぶようになり、下北沢や三軒茶屋で飲むようになった。最終的には、家の近所(杉並区西荻窪)で生活が完結するようになり、福岡に移った今は、室見川沿いをぷらぷら歩きながら缶ビールを飲んでいる。
天神や博多は、まぎれもない都会だ。
初めて降り立ったとき、「これ、東京と変わらないな」と思ったし、場合によっては、東京よりも活気があるように感じた。
都市には、「ここが自分の居場所だ」と思わせる魔力がある。
「この場所に含まれていたい」「ここで生活したい」「これが自分だ」と錯覚させてくれる。そう思わせる都会の力は、魅力的で、抗いがたい。
かつての僕にとっては、新宿がその場所だった。
けれど、やがて気づく。都市は僕じゃない。みんなのものだし、他人だ、と。
十代を象徴する景色は田んぼと桃畑だった。二十代、三十代は、中央線と都市。さて、これからはどんな景色が待っているんだろう? できれば、静かで自然がある場所がいいとは思っているんだけれど。
ここで問題です。大都市博多で一番静かな場所はどこでしょう?
正解は意外な場所にある。それは、博多駅の七隈線と空港線を結ぶ地下通路。具体的に言うと、博多駅道路陥没事故の経緯と復旧について書かれたパネルが飾ってある場所付近。僕は通勤ラッシュ時の八時過ぎに博多駅を利用していたんだけれど、なぜか、この通路だけは、いつも人が少なく、嫌な気分になることなく歩くことができた。
通り過ぎる音のない人影。壁をすり抜けるような、都市の静寂。都会の底にも、静けさは潜んでいる。ただし、それは気配のようなもので、見つけようとしないと見えない。
僕は少しだけ立ち止まって、ひんやりとした壁に手をつける。多分、ちょっと嬉しかった証として。
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