小説について考えた
初めて小説を書いた日のことを覚えている。そのとき、僕は代官山のレストランでソムリエをしていた。そこは流行りの店で、たいてい満席だったけれど、その日はゴールデンウィークの中日で、珍しく空席が目立っていた。
そのとき、僕はまだ自分のことをミュージシャンだと思っていた。バンドは空中分解していたけれど、曲は作っていた。仕事の合間に詞や曲のアイデアをiPhoneのメモに記入し、ボイスメモにメロディを吹き込む。
合間に考えているから、詞はシュルレアリスムやダダの詩のように脈略がなく、単なるイメージの寄せ集めのようだった。それらは生まれては流されていく無意味な言葉に思えた。
ランチが終わり、ワイングラスを磨いているとき、僕の中で何かが閃いた。それは、「この言葉の連なりは物語になるかもしれない」という予感だった。
僕は無垢の予兆に従って、その日から詞の断片を物語へと変換していった。完成したのは、新宿を舞台に少年が一夜を過ごす物語だった。出来は酷いものだったけれど、書いている間、とても楽しかった。
不思議だった。自分は代官山のレストランにいて、サービスをしている。一方で、物語の登場人物たちは、路上をうろつき、寝転び、缶ビールを飲んでいる。人生が二つになったような気がした。
書くという行為はシンプルだ。紙とペンがあればいい。なければ、スマホが一台あればいい。それもなければ、頭の中に思い浮かべればいい。「考えること」それがそのまま小説になる。肉体が制限されていたとしても、思考を縛ることはできない。現実では不可能だとしても、そこでは何もかもが可能になる。自由だ。
この発見をしたとき、文字通り身体が震えた。「一生遊べる」と思った。
今朝、ポストに『ふくおか市政だより』が入っていた。
「チョウとトンボ、どこがちがう?!?」という自然講座の記事に目が止まる。古代のアクセサリー作り、古代の装飾品、勾玉(まがたま)を作ります、という記事が気になる。西区のキャラクターの「にしくも」も気になる。求人が出ていないかも確認する(めぼしいものはない)。市政だよりを畳んで、昼に何を食べるか考える。昨晩、タイ料理屋に行ったから、辛いもの以外がいい。うどん? パン? 寿司? そういえば、福岡に移住して驚いたのは鯖とカンパチの美味さだった。野菜も美味いし、果物も美味い。それに安い。新鮮なきゅうりが食べたい、冷えたスイカが食いたい。この前、スイカと餅が好きな東京の友人が福岡に遊びに来ていた。祇園のウエストでランチをして、大濠公園で、花見をしながらビールを飲んで、六本松の白昼夢でワインを飲んだ。彼女に福岡の餅は丸餅なんだよ、と教えてあげればよかった。昨晩、セブンイレブンの駐車場でクラクションを鳴らされた。駐車場でクラクションを鳴らされるなんて初めての経験だったから驚いた。ヤクルトは今日も負けた。室見川沿いのベンチに腰掛けてレモンサワーを飲みながら夜空を見上げた。星が五つぐらい見えた。初めて書いた小説を友人に読んでもらったときのことを思い出した。彼はミラン・クンデラの『無意味の祝祭』を僕に渡しながら「きっと、こういう小説を書くようになると思うよ」と言った。どういう意味で言ったのかはわからない。だけど、僕はそれを美しいと思った。意味を祝うことはできない。無意味の祝祭だからいいんだ。
小説を書くことに意味はない。伝えたい思いもないし、深い思想もない。生の祝祭と死者への礼賛の間でゆらゆら考えること。そう――そんな感じ。

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