第3位 ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』
ロックな文学第3位はウィリアム・バロウズの『裸のランチ』
ビートの作家といえばジャック・ケルアック。ビートの詩人といえばアレン・ギンズバーグ。ビートの体現者といえばニール・キャサディ。それじゃあ、ウィリアム・バロウズは? ビートのジャンキー? ビートのアナーキスト? ちょっとカテゴライズ不能なこのウィリアム・バロウズ。ロック・ミュージシャンからの信望が厚いことが有名で、パティ・スミスやルー・リードとの交友。デヴィット・ボウイやイギー・ポップへの影響。一番有名なのはニルヴァーナのカート・コバーンへの影響だと思う。カート・コバーンは若い頃、バロウズの『裸のランチ』を愛読していて、その影響がニルヴァーナの歌詞や表現に色濃く表れている。カートはその後、アイドル視していたバロウズとコラボレーションが実現して1枚のe.pを出している。タイトルは「the priest they called him」歪んだギターで「きよしこの夜(Silent night)」を弾くカートのバックでバロウズが朗読するという内容で、かなりぶっ飛んでいる。
裸のランチ
処女作『ジャンキー』が鳴かず飛ばずの頃、ケルアックは『路上』で、ギンズバーグは『吠える』ですでに有名になっていた。
モロッコ タンジールで親のスネをかじりながら男色と麻薬に没頭していたバロウズは、このままではいかん、と麻薬断ちを決行。執筆に取りかかる。
書いて書いて書きまくった原稿をパリのギンズバーグに送り、アングラ出版社のオリンピア・プレスに持ち込む。「読めるようにしてから出直せ」と追い返されるが、なんとかその半年後に出版が決まる。
出版はされるが、出版社は『裸のランチ』の編集作業は行わず、でたらめな構成のまま刊行される。このへんのテキトーさもロックっぽくていい。ちなみに『裸のランチ』の命名者はジャック・ケルアック。
作家が書くことができるものは、ただ一つ
『裸のランチ』は有名な作品だ。だけど最後まで読んだことがある人は何人いるんだろう。
SNSで『裸のランチ』を検索すると、たいていは挫折しているようだ。「読めませんでした……」「苦痛でした……」「まったくわからない……」etc
何人かはクローネンバーグ監督の映画作品についてコメントし、何人かは「カットアップ」という技法について語っている(この作品にカットアップの技法は使われていないのに!)。
編集も構成もでたらめなこの本は確かに読みづらい。だけど、面白くない作品ではない。
この小説は「意味」に頼らずに、目の前に並ぶ言葉をただ読んでいくのが面白い。
どれだけ普段ぼくたちが「意味」に縛られているかわかるだろう。
比喩も伏線も考えず、即興演奏を聴くように楽しめばいいと思う。
例えばこんな文章。
カールは、専用浴室とコンクリートのバルコニーのついた、明るく輝く大きな清潔な部屋の中でジョセリトを見つめた。この冷たい、からっぽの部屋では何もしゃべることがなかった。黄色い水盤の中で育つ水栽培のヒヤシンスと澄み切った青空と流れる雲、彼の目の中で恐怖の色が明滅する。
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
カールが誰で、ジョセリトが誰かは考えなくていい。からっぽの部屋、水栽培のヒヤシンス、牧歌的な(いくぶん陳腐な)風景と、唐突な恐怖。この対比というか場面が単純に面白い。
R.E.Mの“イミテイション・オブ・ライフ”に「水栽培のヒヤシンス」という歌詞※が出てくるなあ。マイケル・スタイプも影響受けてるのかなあ、とか思っておけばいい。
※「おかしなアクション/ポップのテクニック/水栽培のヒヤシンス/詩人による命名/作りものの人生」
外では、サンタクロースの服を着た老いぼれ中毒者(ジャンキー)がクリスマス・シールを売っている。「みなさん、結核と戦いましょう」と彼は肉体からばらばらになったようなジャンキーの声でささやく。
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
このシーンはニルヴァーナの“ハート・シェイプト・ボックス”を想起させる。カート・コバーンはこの部分をインスピレーション源にしているはず。バロウズにPVへ出てもらいたがっていたし……。
リンプフ医師「切開しましたよ、先生」
ベンウェイは吸込みカップを切開口に押し込み、上下に動かす。血が噴出して医者や看護婦や壁に飛び散る……
看護婦「先生、死んだようです」
ベンウェイ医師「ではこれで今日の仕事は終りだ」
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
タチの悪いブラックジョークだけどコントっぽくて面白い。
ドラッグストアのノイズはだんだん増していく。はずれた電話の受話器から聞えてくるような抑制された呟き声…… 終日時間をつぶして、午後八時にユーコダル二箱を手に入れる…… 血管がなくなり、金がなくなってゆく。
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
大統領は中毒者なのだが、その地位のために麻薬に直接手を出すことができない。そこで、俺を媒体にして麻薬を吸収する……
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
「役所は国家組織の崩壊とともに死滅する。追い出されたサナダムシや、宿主を殺してしまったウィルスのように、自分自身をどうすることもできない、自立生活に不向きな存在なのだ。
「私は以前、ティンブクトゥーで、尻でフルートの演奏ができるアラビアの少年に会ったことがある。」
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
店の近くに配置しておいた飢えきった百匹のブタがレストランに駆け込み、高級料理をめちゃくちゃにし始める。ロベールは巨木が倒れるように一気にどっと床に倒れ、そのままブタどもに食われる。
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
『裸のランチ』は現代を風刺しているようにも読めるし、ディストピアSFとも読めそうだ。イメージは覚めない悪夢。どのページにも麻薬、同性愛、暴力、殺人、糞尿、ウィルス、寄生虫、人体といったトピックが頻出する。
まるで麻薬中毒者の視界を借りて世界を眺めているような気分になる(読書は合法だ!)。
バロウズは作中でこんなことを言っている。
作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ……私は記録する機械だ…… 私は「ストーリー」や「プロット」や「連続性」などを押しつけようとは思わない……
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
そしてこうも言っている。
時間は使い果たされた……
人は時空のいかなる交点においてでも、裸の昼食(ランチ)に割りこむことができる……
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』 鮎川信夫訳
『裸のランチ』に過去や今はない。不断の「今(の感覚)」が描かれ続けている。だからこの本はどこから読んでも大丈夫。ストーリーやプロットがないから、最終ページから読んでも問題ない。こんな自由な本が今まであっただろうか?
※ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』、その中でも“ミルク・イット”を聴きながら読むと雰囲気が盛り上がると思います。
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