映画について考えた
福岡に来てからいくつか映画を観た。数えてみると、ボブ・ディランの伝記映画『名もなき者』と、レオス・カラックス監督の『イッツ・ノット・ミー』、ルカ・グァダニーノ監督の『クィア』、ウィリアム・バロウズのドキュメンタリー『バロウズ』の四本だった。『名もなき者』は、ユナイテッド・シネマももちで、それ以外の三本はKBCシネマで観た。
いやあ、KBCシネマはいい映画館ですねぇ。いつ行っても空いているし、観に来ている人たちの年齢・職業の不詳具合も実にいい(褒めてる)。天神の喧騒から少し離れた立地も好ましいし、映画館としての規模感も完璧。KBCシネマには、つい「俺の」映画館だ、とでも呼びたくなるような親密さがある。
東京にいたときも、そんな「俺の」映画館がいくつかあった。吉祥寺にあったバウスシアター(二〇十四年閉館)、渋谷にあったアップリンク(二〇二一年閉館)なんかがそうだ。友人が働いている阿佐ヶ谷のMorcもいい。個性的で親密。上映作品のセレクトも渋くて好みだった。
映画は面白い。と、言うと、村上龍のある言葉を思い出す(正確な出典は忘れてしまった。小説の登場人物が言っていたのか、エッセイだったか)。──「映画は面白いものなんですよ」
映画が面白いのは当たり前。それが映画なんだから。そんなニュアンスだったと思う。若かった僕は、「なるほどなあ」と、その言葉に妙に納得して、それ以来、「映画は面白いもの」と思って映画を観てきた。実際、映画には、演劇、映像、音楽、ファッション、人生(ストーリー)と、あらゆる要素が入った贅沢な芸術だと思う。
とはいえ、最近はその感じ方にも変化が出てきた。いや、正確には、あることに気がついた。それは、面白くなくても面白い作品もあるということだ。
何言ってるかわかんねえって? はい、そうですよね。自分でも変なことを言っている自覚はある。でも、マジなんだって。
たとえば、今年観た映画でいえばレオス・カラックスの『イッツ・ノット・ミー』がそれにあたる。
──面白くない。そして、面白い。
僕はこの映画を観ているあいだ、一度も退屈しなかった。終わったあとには「もう一度観たい」とさえ思った。なぜそんなことが起きるのか?
きっと、作品が面白くないと感じる原因の一つは、その映画が「わからない」からだと思う。ストーリーがわからない。キャラクターの行動や言動がわからない。作者の意図がわからない……etc
『イッツ・ノット・ミー』のトレーラー動画(ユーロスペースのYouTubeチャンネルにある)のコメント欄を見ると、意見が真っ二つに割れていて面白い。
「ただただ見たい!」「ゴダールみたい」「映画はこれでいい!」というような肯定的な声がある一方で、「これは映画じゃない」「観に行くけど、解るのだろうか」「やっぱりわからなそう」といった、やや不安げなコメントもある。
ネガティブな反応の多くは、「わからなさ」への戸惑いに由来しているように見える。そりゃそうだ。「なんだこれ、全然わかんない」と思ったうえで、一八〇〇円(くらい?)払っていたら、損した気分になるのも無理はない。
じゃあ、「わからない」と「面白くない」はイコールなのか? 違いますよね。だって、「わからない」には価値があるんだから。
今の世の中は、ほとんどすべてが受動的だ。スマートフォンやAIが、答えを与えてくれる。ワンクリックで、エンタメもニュースも、欲しい情報も手に入る。たとえば、この場所から一番近いパン屋の場所、ヘルシンキの天気、スコットランド・リーグの試合結果、ブルックリンのバンドのセットリスト──全部、すぐに調べられる。
知りたいことなんてなくても、SNSを開けば、優秀なAIやアルゴリズムが、好みに合いそうなコンテンツを次々と差し出してくる。刺激的な投稿、最新の情報、過激な議論、面白い雑談。気がつけば、あっという間に時間は溶けている。
けれど、レオス・カラックスの映画を、「受け身」の姿勢で楽しむことはおそらく不可能だし、AIに「カラックスの映画の何が面白いの?」と聞いたところで、たぶんズレた答えが返ってくるだけだ。
自分で考えること、与えられた正解が正解だと思わないこと。「わからない」にとどまり続ける勇気があれば、人生はもっと豊かになると思う。
余談
キノシネマと映像ホール・シネラにはまだ行けていない。いい映画館だという噂は聞いているから近いうちに行ってみようと思う。福岡に住んでいるみなさん、おすすめの映画館があったら教えてください。


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