音速少年から過激な大人へ
『ムーレイ・ストリート』は<9.11>のテロが起きた翌年、2002年に発表された。その影響からか、このアルバムはニューヨークをセレブレーションするようなものとなっている。
このアルバムでソニック・ユースは、ニューヨークを生きるアーティストとして、これからもロックを表現していくという決意と、ニューヨークからまた始めるんだ、という意思を表明した。
とくにその想いが反映されているのがこの〝ラディカル・アダルツーリック・ゴッドヘッド・スタイル〟だと思う。
それは、ソニック・〝ユース〟からラディカル・〝アダルト〟へ。つまり、表現をより深く、より過激にということだったんじゃないかな。
以前、インタビューでサーストン・ムーアは「〝ラディカル・アダルツーリック・ゴッドヘッド・スタイル〟はニール・ヤングやヨーコ・オノのような人たちが未だに過激な音楽を作っているのに対して、若いバンドが無難なパンクロックを作っているというこを歌った曲」と説明していたけど、そもそも、ニューヨークという都市は、過激で実験的なものを生み出す街であるはずで、<9.11>を経て、より過激にあろうとする姿勢こそが、彼らにとって正しいことであり、やるべきことだと改めて思ったんだろうな。それはトラディショナルであり、革新的であること。正確なリズムと、伝統的なロック・フォーマットを使ってクレイジーな演奏をすること。つまりはスティーブ・シェリー(この人がいなければソニック・ユースは始まらない。バンドの心臓だと思う)、つまりはキム・ゴードン、つまりはソニック・ユース。
今、ソニック・ユースを聴いている人がどれだけいるのかはわからないけど、何かをクリエイトしている人だったら、その姿勢から学べることは大いにあると思うんだな。だって、アートをやる上で一番大切なものは姿勢だと思うから。
ラディカル・アダルツーリック・ゴッドヘッド・スタイル 和訳
天窓から差し込む月灯り
膨れ上がるよ、とてつもなく
ノイズの固まり、浅はかなたとえ
大いに称えよ、彼女の魂を
劇場の女神、映画の破壊者
ニューヨークの女の子たちは、きっと彼女を気に入るだろう
ファジーな美人、10代のコンピュータ
世界の目に映る、衝撃の姿
見知らぬ連中の美の傍らで影の薄い僕は
恐怖のあまり彼らを、頭の中で変身させる
幸せそうな、笑顔のルームメイトへと
そして全力で、彼らはロックンロールを創る
あれは何だろう、きみはルー・リード
裏庭の小川の、ほとりで壊れたトランス
とびっきりの曲、悲惨なバブルガム
過激な大人はゴッドヘッド式で決める
ソニック・ユース 『ムーレイ・ストリート』 ラディカル・アダルツーリック・ゴッドヘッド・スタイル 対訳:染谷 和美
そして全力で、彼らはロックンロールを創る
ニューヨークへの愛に溢れた歌詞だと思う。
2004年だったか、サーストン・ムーアとリー・ラナルドがポエトリー・リーディングをするイベントがあって、聞きに行ったことがあるんだけど、そのときサーストンはこの曲の一節を朗読していた(天窓から差し込む月灯り 膨れ上がるよ、とてつもなく)。きっと、本人にとっても大事な詩なんだろう。
美しい出だしからノイズの固まり、浅はかなたとえという風に繋げ、大いに称えよと書いているところがユニークで、ニューヨークのコスモポリタンな性格を表しているように感じる。
劇場の女神も、映画の破壊者も、とびっきりの曲も、悲惨なバブルガムもニューヨークは丸ごと受け入れる。それが街が象徴するもの、つまり自由だ。
そして、ニューヨークを象徴するロックンローラー、ルー・リードが描かれている(あれは何だろう、きみはルー・リード)のも面白い。サーストンはきっとこの一節で「俺たちが目指すのは、アンダーグラウンドで過激なものだ」と宣言している。
ロックンロールは十代だけのものじゃない。
ソニック・ユースはもう存在しないけど、今日も彼らは全力で〝過激に〟ロックンロールを創っている。
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