好きな場所について考えた
あ、好き。そう思うときに、理由はたいていない。あったとしても、ずっとあとからやってくるものだ。
今回は福岡に来てから、この場所なんかいいなあ。と、思ったところについて考えてみたい。
まずは「愛宕大橋」から眺める風景。ここは、福岡市の西区と早良区をつなぐ橋で、福岡に来たばかりの頃に働いていたTNC放送会館ビルへ出勤するときに通っていた。
右手には、鋭くとがった中洲が見えて、想像力を刺激する。左手には、ノスタルジックな海沿いの道がすうっと伸びている。僕は「いいなあ」と思いながら橋を渡り、渡りきると「いやだなあ」と思いながらこれから始まる仕事のことを考えた。
結局、仕事はすぐに辞めたけれど、ここの景色は気に入っていたから、仕事を辞めた後も、海沿いの道を自転車で走ったり、中洲を舞台にした小説を書いた。
小戸公園のバスケットコートも好きだ。別にバスケをするわけじゃないんだけれど、海を背景にしてぽつんと置かれたハーフコートには、「ここから何かが始まりそうな予感」がある。そういう気配が、いい。
もし、子ども時代にこの辺に住んでいたら──と想像すると、少しわくわくする。跳ねるバスケットボール、ぬるくなったコカ・コーラ、波の音。音は仲間と一緒にいるときにはおおらかで、夕方、解散するときには寂しく聞こえる。
白砂の海岸線を美しいクロマツ林が走る生の松原も好きな場所だ。空気は澄んでいるし、海岸沿いから眺める景色もいい。フカフカした土の上を歩きながら無心で歩いていると、心の中の凝りが、少しずつほどけていく。
松林を抜けると、目の前に海が広がる。すぐそこに能古島が見えて、遠くには玄界島が霞んでいる。その日は、能古島のほうからドンドコ、ドンドコと太鼓の音が聞こえてきた。たぶん、祭りだったんだろう。
福岡には島が多い。海に行けば必ず島が視界に映る。泳げば渡れるんじゃないかと思うような距離に浮かぶ島もあれば、彼方にばんやりと浮かぶ神秘的な島もある。島々を眺めていると、僕はつい、そこに住む人たちはどんな暮らしをしているのだろうと考えてしまう。もし、あの場所で生まれていたら? きっと、今のような人生にはなっていないだろう。じゃあ、どんな人生になっていた? と問われても答えられないけれど。
松原と海岸の境には元寇防塁が走っている。モンゴルの大軍を迎え討った場所がここなんだ、と思うと、七百年以上前に起こった合戦の地続きの生を生きているという現実に面食らう。
僕は想像する。目の前の海に千艘の船が並ぶところを。季節は夏で、太陽は惜しげもなく光を降らせている。
徐々に船が近づき、乗っている人間の輪郭が見えてくる。装備が見えてくる。お互い、何分後に戦闘が開始されるか予測する。次から次に汗が流れていくけれど、気にする余裕はない。
敵が動く。矢が宙を舞う。放たれた矢は青空を背景に迫ってくる。極度に集中しているからスローモーションに見える。そして、その時が来る。敵の顔がはっきりとわかる。知らない言語の怒声が聞こえる。嗅いだことのない匂いが鼻をつく。殺される、あるいは殺す。そこら中でそれが起こる。それは数分後かもしれないし、数十秒後かもしれない。想像は血に染まった白砂を映す。想像が止まる。
そして、僕は「今」に戻ってくる。ぬるくなった缶ビールを一口飲んで、止まったように静かな風景を見渡す。
──静かだ。
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