書店員がおくるブックレビュー カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』
この連載では、現役書店員の私が「この本こそ!」と思った傑作小説をレビューしています。
カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』は、早川書房より刊行され、ハヤカワepi文庫にて文庫化もされています。
『遠い山なみの光』と対になるべくして書かれた小説
ブッカー賞作家、そしてノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロ。
長編小説を主戦場とし、叙述トリックの一つである「信用できない語り手」という手法が時折用いられるのが特徴です。
カズオ・イシグロが日本でこれだけ浸透しているのは、彼のルーツにあるのではないかと思います。
作家カズオ・イシグロは日本・長崎に生を受け、その後、幼い頃にイギリスへと渡ります。
小説は英語で書かれていますが、自分の中に存在する「日本人の自分」というものを大切にしているのではないかと感じます。
日本とイギリス。
文化も違えば、歴史上の衝突もあります。
『遠い山なみの光』の中でカズオ・イシグロが書いたものが「日英の家庭観や教育観の違いとその融合」であったとしたら、『わたしたちが孤児だったころ』でカズオ・イシグロが書いたものとは、「日本とイギリス、2つの国籍の衝突」なのではないでしょうか。
2つの国籍の衝突
『わたしたちが孤児だったころ』の主人公クリストファー・バンクスはイギリス人で、上海で生活をしています。
クリストファー・バンクスには家族がおらず、いわば天涯孤独の身。自分のルーツを探るようにして彼は探偵となります。
登場するのは日本人の友人アキラです。
2人は仲が良いはずなのに、血の諍いのように言い争う場面があります。
また自分のルーツをたどったり、自分の将来を不安に思ったりする姿が時折見られます。
すべてを綿密に描くのではなく、ある場面は色鮮やかに、ある場面は幻想的に描く。
カズオ・イシグロ小説に見られるそのコントラストが、2人の若者の生き生きとした「生」への執着を感じさせます。
私はこれらの場面を読みながら、主人公のイギリス人クリストファー・バンクスも、友人の日本人アキラも、どちらも著者カズオ・イシグロの分身ではないかと読みました。
カズオ・イシグロの中には確かに日本人の自分とイギリス人の自分が存在している。
そして、普段は1つにまとまっているものの立場が難しくなるような場面も確かにあるはずなのです。
自分を語るということ
読み進めると見えてくるのが主人公クリストファー・バンクスの両親についてです。
子どもの頃にはわからなかった、両親がしていた仕事。失踪の真実。母親の現在まで。
多岐にわたる自分史を少しずつ受け入れていく主人公の姿には胸が痛みます。
衝撃的な事実ばかりで、受け入れられないように感じました。
そして彼は、自分でも受け入れられていないものを、違う国の血を流した友人アキラに語るのです。
本来であれば自分が理解していることや、わかっている事のみしか、他者には語ることができないのではないかと思います。
けれど時として人は、自分に語るようにして、他者にものを語ることがあります。
人に聞かせるようにしながら自分でも理解をしていく場合です。
今回、小説『わたしたちが孤児だったころ』の主人公クリストファー・バンクスの状態は後者の「自分の中での受容がうまくいっていない」ケースではないかと感じます。
では、「自分の中での受容がうまくいっていない」場合、その話を投げかけたい相手とはどのように選ぶものでしょうか。
時には他者に、時には読者に
距離が近すぎる相手には、語ることができないものが多くあるかと思います。
むしろ、顔を知らない相手に対してネットでぼやいたり、そこまで深く自分のことを知らない相手に対して投げつけるように接したほうが気は楽になるのではないでしょうか。
自分をよく知っている相手に対しては、「自分に関しての情報をどこまで開示するか」をつい慎重になるものです。
となると、自分とかなり境遇が似ていたり、昔から親しくしていた相手にはなかなかこの類の話を持っていく事はないでしょう。
『わたしたちが孤児だったころ』の主人公にとってアキラとは、違う国の文化を背景にして育った友人です。
ごく最近になって知り合い、互いの幼少期を全く知りません。
自分の国と友人の国との間でかつて、諍いもあったかもしれません。
そのような異なった文化背景に育った友にこそ、受け入れてもらえるのではないかと感じ、その胸の内を開けているのではないでしょうか。
時には他者に、時には読者に。
もしかすると、著者のカズオ・イシグロもまた、近すぎない相手に、他者に、語りながら自分を受け入れていく必要があったのかもしれません。
その結晶が、小説『わたしたちが孤児だったころ』なのかもしれません。
そうだとすれば、私たち日本の読者に向けられたメッセージは、とりわけ大きいものがあるように思えます。
イギリス人としての著者カズオ・イシグロと、日本人としての私たち読者が共鳴することで見えてくるものが、きっとあるのではないかと私は感じています。
文:東 莉央
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