ソール・ライター展 アンコール開催……!
2020年2月後半、東急文化村で開催していたソール・ライター展に行くつもりで前売り券も手にしていたぼくは、突然のアナウンスを聞いてショックを受ける。
ソール・ライター展中止!
明日、行こうと思っていたのに……。と嘆いても仕方ない。この鬱憤は酒で晴らそう。ぼくは自宅に帰りブルゴーニュを痛飲した……。
ところが!先日、アンコール開催のお知らせが!
知り合いに経緯を訊いたら、コロナでニューヨークに作品を返却できないとのこと。なるほど。コロナで中止になり、コロナで再開ということね。もちろん、ぼくに文句はない(ただ、前回のチケットは使えないのでまた買い直しましたよ、トホホ)。
物事をコントロールしない美
ソール・ライターからはなぜか「芸術家」特有のエゴイズムを感じない。どうだ!これが俺の作品だ!的なエゴや、時代を切り取ってるぜ的なセンセーショナルさがあまり感じない。
といっても、パーソナリティがないわけじゃなくて、ガラス越しに撮られた写真を見かけたら、あれ、これってもしかして…あ、やっぱりソール・ライターだ、ってことがあったりする。
ソール・ライターは20代後半から生涯までの50年以上をロウアー・イーストサイドのアパートメントで暮らした。ロウアー・イーストサイドは、もともと移民の街で低所得者が住むような街だったんだけど、だんだん若いアーティストなんかが移り住んできて、1980年代にはアートシーンが花開き、200以上のギャラリーができたという。その後はニューヨークパンクシーンが生まれたり、オルタナティブ・ロックの聖地になったり、オシャレなブティックが乱立したり、現在では、スーパー高級エリアになっている。
ソール・ライターはそんなロウアー・イーストサイドの変遷を目の当たりにしていたはずなのに、作品にあまり影響を及ぼさなかったみたいだ。これってかなり凄いことだよね。だって、貧困街にどんどん野心をもったアーティストが流れてきて(時期的にアンディ・ウォーホルとか)、街全体が刺激に満ちていく中、ソール・ライターの作品や態度は変わらなかった(ようにみえる)ということだから。
ソール・ライターの写真は、撮影者が消えているような時があって、小説でいう神の視点的なやつがパッと人物や街を映したような、そんな感じに見える。
意図のない、ただの日常の中に物語が起こっていくような感じがして、そこがソール・ライターの最大の魅力だと思う。
うろ覚えなんだけど、ソール・ライターが、驚異的な事は世界の裏側で起こっているわけじゃない、というようなことを言っていたと思うんだけど、ソール・ライターの写真を見ていると、街の中にはいくつもの人生があって、それが交差して、物語が生まれているんだな、ということに気づく。
ポール・オースターの『インヴィジブル』を手に取った時、あれ、これってもしかして、と思ってカバー裏を見たらやっぱりソール・ライターだった。
激動のニューヨークの中を「透明」になって物語を映してきたソール・ライターにとっても、この『インヴィジブル』の表紙はめちゃくちゃマッチしているように思う。
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