カズオ・イシグロ/日の名残り ブックレビュー

レビュー/雑記
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カズオ・イシグロ 日の名残り

ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロ。

カズオ・イシグロ作品3作目『日の名残り』は、弱冠35歳にして、イギリスで最も名誉のある、ブッカー賞を受賞したことでも有名である。

カズオ・イシグロ作品といえば「信頼できない語り手」が手法として使われていることが多く、この作品でもその手法が使われている。不安定で、不可解で、不確か。その、ミステリアスな雰囲気に、人間心理の一端があらわれているようだ。

信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、英語: Unreliable narrator)は、小説や映画などで物語を進める手法の一つで、語り手の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせミスリードしたりするものである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

しかし、『日の名残り』が、これまでの作品と異なる気がするのは、そこに、ほろ苦い恋愛要素が含まれていることだろうか。恋愛の物哀しさと爽やかさが含まれていることによって、文章全体が柔らかくなっている気がするのだ。

自分の過去の間違いと向き合い、痛みを感じるということ

主人公のスティーブンス。冗談が通じないほど真面目で、律儀で、執事としての仕事を全うすべく、仕事に全力を注いで生きてきた彼。執事としての自分に誇りを持っているが、最近では、細かいミスが増えてきた。そして、仕事に熱中するあまり、失ってしまったものがあるらしい。

これは、ミス・ケントンに会うために旅行に行った、彼視点から語られる物語である。

今のご主人、ファラディ様に仕える前は、ダーリントン卿に仕えていた彼。「尊敬していた」と話しているのに、色々な場面で、ダーリントン卿に仕えていたことを隠そうとする場面があるのだ。

尊敬していたダーリントン卿。そんなダーリントン卿が、ナチスの支援活動をしていたことを知ったとき、彼は己自身を見つめ、内省していたに違いない。

自分の過去の間違いを認め、自分自身と向き合う時には、痛みが生じることがある。あの時は、ああするしかなかった……と、自分を守りながらも、自分は間違っていたのか……と、己自身に問い続けていた彼。そんな彼を責められる人などいるのだろうか。

執事か人間か 内面を切り離して生きた彼の人生

「執事であることは、パントマイムの衣装とは違います。ある瞬間に脱ぎ捨て、またつぎの瞬間に身につける。そんなところを、他人に見られてよいものではありません。執事が、執事としての役割を離れてよい状況はただ一つ、自分が完全に一人だけでいるときしかありえません。」

カズオ・イシグロ 『日の名残り』

彼は、語り手であると同時に、旅先に出ても「執事」なのだ、ということがこの文章から、伝わって来るように思う。

真っ当な執事であるために、自分の内面を切り離して、仕事に人生を捧げた彼。それ故に、ミス・ケントンからの恋心にも気付けなかった彼。いや、本当に、気づけなかったのだろうか。気づいていたが、気づいていないふりをしたのではないだろうか。

「執事であるか、人間であるか」

その選択を迫られた時、ミス・ケントンを失う代わりに、執事であることを全うした彼。そして、そうしてまで、手に入れたものも、老いによって次第に、あやふやになっていってしまう。

文中に何度も出てくる「品格」という言葉は、話が進むにつれて、執事としての「品格」ではなく、人間としての「品格」に移り変わっていく。まるで、スティーブンスが、長年抑えていた内面を解き放つかのように。

最後の場面。偶然、知り合った男性からハンカチを手渡される彼。そう。スティーブンスは、泣いているのだ。ミス・ケントンへの恋心を自覚して、己の内面と向き合って、長年抑えていた感情から解放され、泣いているのだ。泣いて、そしてまた、前を向くに違いない。

「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を延ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。」最後に明らかになるタイトル「日の名残り」の意味。旅の終わり。一日の終わり。そして、スティーブンスの人生の終わり。

失ったものが少なくはない人生だけれど、沈んだ太陽が輝きと温もりを残してくれるように、彼の執事人生もまた、輝きを残してくれるのだろう。

どれだけ過去を後悔しても、わたしたちは今を生きていくことしか出来ない。その選択が、正解だったのかどうか、そんなことはわからず、選んだものは自分で正解にするしかないのだ。そして、仮に間違いだったとしても、それを責める権利は誰にもない。自分の幸せは、自分で決めること。これが人間の品格であり、尊厳なのだろうと、思うのだ。

文:紫吹はる

紫吹はる

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