小説 『みずうみ』 小日向ジュンコ

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みずうみ

暗い水面を魚が蹴った。
____

「これでは、ぶどうが彼を食べてるわよ」
目の前の少女に教えている英語は、受動態の文章で、たまに引っかけ問題として単純な設問もある。例えば、彼は今朝ぶどうを食べた、というような。このぶどうは彼に食べられた、なんて普段は使わない。それは分かっているが、後々長い文章を書く時に必要になる文法で、どれが主語になるのかを判断しなくてはならない。

小学校から英語教育が始まったとはいえ、やらされているけれど理解はしていない、という子が時折ここに送り込まれてくる。そう、私は正規雇用の教師ではなく、学習支援という立場である。

もう少し興味を持ってくれたら、なんとなくでも形を覚えてくれるだろうにと思いつつ、この、やる気のあるのかないのかわからない生き物たちに今日も語りかける。

「英語は、一番言いたいことが最初にくるからね」
など説明しても無反応。その無表情の彼女の目を覗き込む。

青白く濡れた白目の中心にある深い黒を、真っ直ぐ見たのは初めてかもしれない。底知れぬ、というのはこのことだろうか。しんとした深い森の奥、人知れず存在する湖。生物の気配は、ない。私はその湖の側に佇んでいた。鳥も鳴かず、風も吹かず、明鏡止水。黒々としたその鏡を覗き込んでみると見返して来る顔は、私の顔ではなかった。

はっとして顔を上げると、別の生徒が覗き込んでいた。テキストに顔をつけんばかりに前屈みになっていたらしい私を、心配した生徒が声をかけてきたのだった。

就業時間になって、先の生徒の忘れ物に気づいた。本来、教室のすみにある箱に入れておけばいいのだが、その生徒の家は帰り道でもあるし届けることにした。雇われの身としては、生徒の住居を知ることはないのだが、特徴的な苗字はこの町には一軒しかなく、そして彼女の母親を私は知っていた。向こうがこちらを認識していたかはわからないが、おそらく私のことなぞ眼中になかっただろう。外気にまだ春は感じられない。ストールを巻き付け外に出た。

その生徒の母親__黒瓜明日香がこの町に戻ってきたのは割と最近で、といっても十年くらいであるが、彼女は私たちの五つ下の転校生だった。

私たち、というのは、勝手にこの物語に彼を参加させているのだが、どうしても明日香を思い浮かべる時には彼のことも思い出してしまう。

彼は、古くからある澤田写真館の一人息子で、同級生。何かに秀でているわけでもなく、なんでもそこそこにこなし、特に目立たずといった存在だった。なぜ彼のことが気になったのだろうか。

小六だった私たちは、一年生のお相手をする恒例行事があり、私たちのクラスでは図書室の使い方を教えることになって、そこで明日香のことを知ったのだ。確か、夏休み前に引っ越してきたのだが父親のことは誰も見たことはなく、いつも松木という老人が付いていた。彼女と違う名字の男の名前をなぜ知っているかというと、彼女が「松木」と呼び捨てにしていたからで、その、家族ではない者が送り迎えをする時点で既に彼女は目立っていたし、実際彼女は他の者にはない輝きのようなものを纏っていた。生まれながらにして、という言葉を使うべきはここだ、というように。

その彼女が澤田くんに近づいた。そして身を屈ませた彼の耳元に何かを囁いた。つと、身体を起こした彼は「うん……」と気のない返事をしたきり、彼女になんの興味も示さなかった。何を聞かれたのか問うと、火山湖が好きなのか聞かれたが、オレ別に……と言葉を濁した。それから、なんとなく気になって彼を見てきたのだけれど。

彼が失踪したことを知ったのは、たまたまである。いや、失踪したらしいことはもう少し前に知っていたのだが、その後のことを知ったのが先週のことである。

いつもは通らない商店街を、なにげなく通りたくなっただけなのだが、懐かしい澤田写真館の前に出てみると住居兼店舗であった彼の店は、中の部品や什器を全て持ち出されていた。何もなくなった空間を掃除する人がいたので、同級生であること、学生時代は仲が良かったことなどを述べつつ訪うと、その人は親戚の方であるらしかった。そして、失踪のその後のことを教えてくれた。

十三年前の春、記念撮影のピークを過ぎたころ、仕事で湖に行くと言ってバックパック一つで出かけたきり戻らなかったそうである。夏の暑さが落ち着いた頃、澤田写真店の本家さんが_この親戚の方は別の地で写真店をされているらしい_閉まったままなんだがと連絡が入り、それから捜索願を出したりして、澤田くんが山深い地で亡くなっていることが最近分かったそうである。

みずうみに行くと言っていたのに、その地に湖はないらしい。
発見時の彼は死亡推定日時から数日くらいであること、服装は出かけた当時の春もので、乱れも劣化もなく、そして胃の中からはふどうの種が、そして右手には小さな淡水魚の骨が握られていたらしく、手がかりどころか謎ばかりだと、ため息まじりに教えてくれた。

そんなことを思い出しながら、顔を上げると生徒と同じ目をした、しかし透き通るような女がこちらを見ていた。そうだ、私は今、黒瓜家にいたのだった。
松木老人が湯気の立つティカップを目の前に置いた。

遠くに、魚の跳ねる音が聞こえた気がした。

小日向ジュンコ

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