書店員によるブックレビュー 井戸川射子『この世の喜びよ』
この連載では、現役書店員の私が「この本こそ!」と思った傑作小説をレビューしています。
井戸川射著『この世の喜びよ』は講談社『群像』に掲載ののち書籍化。
第168回芥川賞を受賞した小説です。
『この世の喜びよ』は二人称小説
小説内で「あなた」と表記される主人公。
これは二人称小説です。視点が主人公とは別のところのあるような感覚を得ます。
では、作者の中で『この世の喜びよ』が二人称小説でなければならなかった理由とはいったい何なのでしょうか。
『この世の喜びよ』のキーパーソン
「あなた」と表記される主人公は商業施設の中にある喪服売り場で働く女性です。
「あなた」はいつもフードコートにひとりで座っている10代の女の子が気になっています。
フードコートの少女が隅の席に座って、ジュースをこぼしてしまうのを目撃し、放っておけなかった「あなた」は少女に話しかけます。
フードコートの少女も、「あなた」が喪服売り場のスタッフであることに気がついていました。
ふたりは次第に仲良くなり、深い事情を共有しあいます。
「あなた」を主人公と認識して読むとき、「あなた」を通して著者の自分への語りかけを感じました。
著者・井戸川射子は『この世の喜びよ』を書く際に、神の視点にいたことは間違いないと言えるでしょう。
でも、わたしは主人公を「あなた」と呼ぶ人物は別にいるのではないかと仮定しました。
その人物とは。
フードコートの少女です。
親心と嫉妬
そう仮定した根拠は2つあります。
1つめは、娘たちを気にするシーンが異様に多いことです。
対してフードコートの少女が母や家族を気にする描写は「あなた」目線にもほとんどなかったように思えました。
2つめは、「あなた」が実際フードコートの少女の前で娘の話をするシーンにあります。
基本「あなた」にべったりな様子のフードコートの少女が「あなた」に冷ややかなことばを投げつけます。
これは「あなた」の娘たちへの嫉妬心なのではないでしょうか。
フードコートの少女へ「あなた」が話しかけたのは、いわば親心と言えるのではないでしょうか。
昔、自分の娘の外出先の出来事きっかけに、常に吸水がよくぽいっと捨ててもいいようなタオルを持ち歩く「あなた」。
「あなた」は娘と行動を共にしていなくても、恐らくふたりの娘が成人していると読める状態でも、タオルを携帯しています。
その行動は親心の向く先を新たに求めているように思えました。
さらに10代の少女を以前から気にかけていた様子からも、親心を掻き立てられれいたのではないかと想像できます。
フードコートの少女についても、初めて話しかけてくれた大人に打ち解けるスピードがかなり巻きであるように思います。
彼女は親の代わりに幼い兄弟の面倒を見ている生活に疲れきっています。
まだまだ、子どもでいたい気持ちはあるのでしょう。親代わりの人物を探しているのかもしれません。
擬似親子のようになっていく「あなた」とフードコートの少女。
年の離れた友人のようでいて、幼子を気にかける様子と甘えてわがままを言う場面もあります。
しかし、視点がフードコートの少女であると仮定した時に、「あなた」が実はフードコートの少女を通して自分の娘たちしか見ていないということに思い当たるのです。
少女の心の声
フードコートの少女の心の声はこうです。
「あなたはわたしにとても親切にしてくれる。ジュースをこぼしてしまった時に優しく声を掛けてくれた。とても嬉しくてうっかり好きになり過ぎてしまった。
わたしはあなたを実の母同然に見ているのに、でもあなたはわたしを自分の娘たちに重ねるようにしか見ていないんじゃない?」
『この世の喜びよ』が二人称小説であり、「あなた」という主人公が存在する。
これは「あなた」を通して著者が読者へ語りかける小説ではなくて
フードコートの少女が「あなた」は自分を通して娘たちへ嫉妬する小説なのではないでしょうか。
反論の目線は?
ふたりが知り合う点と、小説の始まりが少しずれていたり、フードコートの少女が「あなた」の目にひとりの人としてはっきり写っていることから、視点が著者の井戸川射子である可能性は高いと思います。
ですが、ここにわたしは可能性として、こんな読み方もできるのではないかと提案します。
この擬似親子はイコールの愛情を持ち合う関係性ではなくて、でもそれでもフードコートの少女にとって「あなた」は大切。
その無情さを10代の少女が『この世の喜びよ』と謳っているとしたら。
あなたはどう思いますか。
他の家って、他の国みたい。
かつての私も、フードコートの少女と同じことを感じていました。
親と子との物語。
それぞれの家庭に引かれる国境のような線。
その国境線を、簡単に超えることも喜び、苦心しつつ愛すこともまた喜び。
世界には明るい感情一色なことなど存在しないと、この10代の少女は悟ってしまったのかもしれません。
文:東 莉央
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