書店員によるブックレビュー カズオ・イシグロ『充たされざる者』
この連載では、現役書店員の私が「この本こそ!」と思った傑作小説をレビューしています。
カズオ・イシグロ著『充たされざる者』は早川書房より邦訳が刊行され、ハヤカワepi文庫でも発売されています。
小説の箱の中の「芸術」
カズオ・イシグロ著の小説『充たされざる者』にはピアニストの主人公が登場します。
私が思うに、小説の中に芸術家が登場する物語はたくさん存在すると思います。
そして、芸術家が登場する小説たちはいつでも、私たち読者を楽しませてくれます。
忘れてはならないのは、小説だって「小説家」という「芸術家」による作品であるという点です。
『充たされざる者』は小説家であるカズオ・イシグロによって描かれた小説であり、芸術作品です。
その小説『充たされざる者』のなかに、世界的ピアニストであるライダーが登場します。
『充たされざる者』のような、小説の箱の中に文学以外の「芸術」が存在する小説は、各々の芸術観が相互に関係を及ぼしながら反響しているというのが私の考えです。
多くの偉大な芸術家は自分のジャンル以外にも人並み以上の知識や考えを有しています。
他の畑の芸術が、本業に大いに影響を及ぼすこともありましょう。
私は小説『充たされざる者』の主人公・ライダーの中にはいくらか、著者カズオ・イシグロ自身の考えが存在すると思います。
小説だけの話ではない。
ピアノだけの話ではない。
『充たされざる者』は相互的に読み解くべき小説です。
結論の出ない闇の中に
では、なぜ著者であるカズオ・イシグロは、自身の分身とも捉えることができる主人公・ライダーをこうも闇の中に放り込んだのでしょうか。
『充たされざる者』という小説は、ライダーがピアノの演奏で招かれたヨーロッパでの物語です。
演奏を任されている「木曜の夕べ」という催し。
けれども、ライダー自身も「木曜の夕べ」の日程や流れを知りません。
現地に着けば誰かが教えてくれると思っていたのでしょう。
マネージャーのように初めから付き添う役割のものも見受けられません。
ライダーはこれから、「知らない町」と「知らない祭典」へひとりで立ち向かわなければならないのです。
『充たされざる者』を読み始めた読者は驚きの展開にもやもやとした思いを抱きつづけることと思います。
目先は真っ暗。戦うべき敵さえ見えない。
闇の中とも、霧の中とも言えるような状態で展開する物語、『充たされざる者』。
ここで閃いたのは頻繁に耳にする「芸術家は孤独」ということばです。
創造をする者の「孤独」
創造をする者の「孤独」は、思いつくだけでたくさんの種類があると思います。
自分の作品として発表するために、競争者の手を借りることは許されない。
一番を狙いたければ、一刻を争う時もあるかもしれません。
自分の中で、ある程度に詰める必要があり、感情を外に放出しないことの重要性も熟知しているでしょう。
著者のカズオ・イシグロは小説『充たされざる者』を通して「芸術家の視界」を表現したのではないでしょうか。
つらさや孤独を知って、共感してもらいたかったのかもしれません。
自分は、この視界でここまで戦っているのだと示したかったのかもしれません。
『充たされざる者』作中のグスダフの存在
『充たされざる者』のなかでごく序盤に登場し、主人公ライダーと接触する人物。
それがグスダフという、ホテルマンのような人物です。
ライダーが滞在するホテルで働くグスダフ。
この人物は自分の仕事に誇りを持ち、人のために仕える姿勢を見せます。
そしてほとんど初対面の主人公・ライダーに対し「仕事観」を語るのです。
それほど親しくない相手に自分の仕事へのプライドをここまで語るでしょうか。
ブッカー賞受賞作家、同時にノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロ作品に漂う違和感。
これは、作者カズオ・イシグロや、主人公のライダーの「仕事」を語る物語ですよ、と明記している場面なのではないでしょうか。
『充たされざる者』を読んだ読者の動き
『充たされざる者』の筋書きは、ひじょうに静かだと思います。
大きな事件は起こらず、物語に変化もありません。
読者は平坦に、進展の見えないライダーのヨーロッパでの日々を読み進めることになります。
平坦でありながら、確実に「木曜の夕べ」当日へ、日にちが迫っているというひっ迫感を自ずと感じてしまいます。
期日は見えているのに、結論が見えない。
これはまさに『充たされざる者』という小説の性質ではないかと思うのです。
私はこれだけ分厚い文庫本を見たことがありません。
ハヤカワepi文庫『充たされざる者』はなんと、948ページもあります。
どうして早川書房の皆さんは、『充たされざる者』を上下巻に分けて刊行しなかったのでしょうか。
上中下と3巻に分けても不思議ではない分厚さです。
これはあえて、「上巻読み終わった!」「次は下巻だ!」と気持ちの区切りをつけさせない「平坦さ」の演出だと、考えることができます。
さらに紙書籍で読んでいる読者の場合、小説『充たされざる者』の終わりまでのページ数をダイレクトに伝えることになります。
「『充たされざる者』のお話が終わるまでにあとこれしかないのに、どうして結論に辿り着かないのだろう。」
これは「ひっ迫感」の演出になるでしょう。
こうして小説『充たされざる者』は、読者とライダーがともに結論の出ない闇の中に
放り込まれることとなるのです。
皮肉にも『充たされざる者』は、カズオ・イシグロとライダーのふたりの芸術家によって表現される「孤独」の物語なのです。
対称となる人物の、二重構造。
あなたも著者カズオ・イシグロと、『充たされざる者』作中のピアニスト、ライダーによって表現される世界へ迷い込んでみませんか。
文:東 莉央
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