岩井圭也/完全なる白銀 ブックレビュー

レビュー/雑記
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『完全なる白銀』で読む自然と地球

2023年2月17日(金)、小学館より岩井圭也さんの新刊『完全なる白銀』が発売されました。

当記事では現役書店員がどこよりも早く、『完全なる白銀』の魅力をたっぷりお伝えします。

登山家のこころ

わたしは登山の経験がありません。

ただ登山がとても命のリスクのある挑戦だとは度々耳にします。

『完全なる白銀』参考文献に掲載のあるノンフィクション本『デス・ゾーン』は以前、わたしも読みました。

デナリ登頂直前の主人公の思考。

母からの電話を受け取り、死の恐怖を間近に感じます。

主人公がそこで思案するのは、「自分が死んだら”残るもの”」について。

自分が死んだらどうなる? の問いに続くのは、誰が悲しむか? というものがスタンダードな気がします。

遺産やお金などを気にする人もおられましょう。

ただ、物体や功績として残るものを思案している主人公の考えは自分にはきっと生まれないものだと思いました。

それは写真家の性なのか、それとも登山を知っているものだけが至る思考でしょうか。

大自然と対峙したことのあるものだけの思考なのでしょうか。

もしくは、わたしが主人公と同じくらいの歳になったら気にすることなのかもしれないなと思います。

小さな地球

きらきらしているようで実は泥傷まみれである若者の描写シーン。

そこに、泥傷まみれの若者とは世界中どこにでもいる若者の姿なのだなと、地続きな印象を覚えました。

海外に行けば、同年代みんなと友達になれる予感をさせます。

国境を越えても、異なる文化の下で育っても、原石の磨かれ方は等しいのでしょう。

国境を越えること。

その行為は『完全なる白銀』のなかでとても容易なことのように描かれています。

「会って話せない?」という発言は、どれくらいの距離感をイメージさせるでしょうか。

電車で数駅。

もしくは同じ県境の中でしょうか。

まさかアラスカと日本と言い出す人はいないでしょう。

『完全なる白銀』の外側には。

この小説『完全なる白銀』では地球がとても小さく書かれているような気がしました。

地球の裏側にひょいと行くことも不可能ではないぞという気持ちにさせてくれます。

その小説構造なおのこと。

どこの生まれか。

性別は。

仕事は。

など、属性に関係なく人を見つめる世界になってほしい。

“いち個人”たちを、より正しく認識する世界に早くなってほしいと思わせてくれます。

若手女性登山家リタの叫びはとても切実に響きます。

読者はきっと、地球は小さいのに遠くのお国の温暖化問題は知らんぷりなんてそれはおかしい、と自分を省みるでしょう。

大きな自然

北海道から沖縄までさまざまな気候はあれど、日本人は冬のデナリ並の雪を恐らく知りません。

多くの日本地域では雪に大きく憧れているような気さえします。

白ではなくて、眩しいくらいに光る雪を肉眼で見てみたい。

『完全なる白銀』読後にデナリを画像検索した暁には、なんだかついさっき自分の目で見てきたような気持ちになってしまうでしょう。

晴天に映るデナリの写真でも、山頂は白く雪で覆われています。

そんなところの冬とはどんな気候なのだろうと思いました。

岩井圭也さんはとても筆の幅が広い方だと思うのですが、中でも、大自然を書かれる時はずば抜けていきいきとされていると思います。

著者さんの自然界の描写をもっと読みたいと思った1冊でした。

何もかもが凍り、白一色のしんと研ぎ澄まされた世界に連れていってくれる小説です。

『完全なる白銀』の自然と地球

自然の力に代々、人間は叶うことなくここまで世代を継いできました。

天災に勝つことはいまだにできません。

その一方で、グローバル化や、インターネットの復旧と、人々の繋がりを意味した「地球」はとても小さくなってきているのではないでしょうか。

遠くの人とオンラインですぐに顔を合わせることができる。

今後、より航空技術が発達したら、アラスカと日本を本当に「今から会って話す」ことのできる距離にしてくれるかもしれません。

それは、とても未来あることです。

同時に、見たくないものから目を背けることを可能としてしまうのではないでしょうか。

「地球」が小さくなった時、自分の友達や家族が「自然」に苦しんでいないように。

私たちは今後、どう生活していくべきなのでしょうか。

大自然描写の名手、岩井圭也さんが『完全なる白銀』を通して教えてくれること。

それは「大きな自然」と「小さな地球」が等しく存在することへの危惧なのではないでしょうか。

文:東 莉央

東 莉央

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