カズオ・イシグロ/浮世の画家
ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロ。
カズオ・イシグロと言えば「信頼できない語り手(unreliable narrator)」という手法が使われる作品が多く、解釈の余白が残されていることが、人気な理由の一つでもあるのだと思う。
不安定で、不可解で、不確か。
そこに人間存在の哀れさや、愚かさ、ある種の真理が表れているような気がする。そのような人間の真理に深く迫った作品が、カズオ・イシグロ作品二作目『浮世の画家』だ。
1987年、ウィットブレッド賞、受賞。
人間の独善性に対する厳しい批判と、年中自己正当化をしなければ生きていけない弱い人間に対する深い同情
舞台は、戦後の日本の、とある架空の町。物語の軸となる主人公の小野は、戦前、名だたる画家であったらしい。そして、どうやら、過去に何か、問題があったらしい。ここで、核心をつく言葉が使えないのは、やはり、カズオ・イシグロの「信頼できない語り手」によるもので、小野視点で語られる小野の半生は、周りの人との会話によって、少しずつ明らかになっていく。
戦前戦後で、変わってしまった価値観。戦前、小野自身が正しいと選び、進んだ道そのものは、戦後、批難され、誤りだと捉えられる。そんな、世の中の移り変わりに苦悩する小野。
冒頭から、最後まで、小野が自分の影響力について謙遜する素振りを見せる文章が、何度も登場する。謙遜しているように見えるのだが、実は、すごく自尊心が高い人なように見えてくる。
最初にも書いたように、小野は、名だたる画家だったらしい。しかしそれは、周りの人との会話によって、少しズレが生じてくる。
自分から見た自分と、他人から見た自分。
人は生きている限り、みんな、主観という眼鏡を通してしか、世界を見れない。どれだけ純粋な目で、世界を見ようとしても、それは何らかの欠陥や偏見を含んでしまう。そして、それは、他の人の目を借りることで、少しだけ修整される。
今回も、小野が名だたる画家だったと言うのは、あくまで、狭いコミュニティの中だけの話で、どうやら、それ程、影響力があった訳でもないらしい、と言うことが周りの人の会話によって、明らかにされる。
しかし、それを認められない小野。
訳者解説では、この物語を「人間の独善性に対する厳しい批判と、年中自己正当化をしなければ生きていけない弱い人間に対する深い同情」と表しているが、この言葉が、痛いほど刺さるのは、これがリアルな人間の姿だと、思うからだろうか。
無情で儚い時代を生き抜くということ
自分が一生懸命に生きてきた証を、否定され、批難されるなんて、どれだけ皮肉なことだろう。戦争という自分の力ではどうにも出来ない世界の中で、必死に生きてきた小野。それを、否定することなど、出来ない。
そして、きっと、小野は気づいている。自分が、そんなに名声高い人物では無かったことも、価値観の転換が起こった戦後において、自分が批難されてしまう人物であることも、きっと、気づいている。
でも、気づいていても、認めたくないことだってある。見えない振りをすることだってある。だから、「信念に従って行動したことだけは確かだ」と言わざるを得ないのかもしれない。
その時代、その時代を生き抜くために必要だった事柄が、次の時代にはもう、排除されてしまうことがある。ナチスによる「退廃芸術」が良い例だろう。戦争も、そうだけれど、わたしたちは、その恐怖を知っているはずなのに、それを声を上げて批判したり、主張できる人など、いない。時代の流れには、逆らうことなど出来ないのだ。
そして、改めてタイトルをみてみる。
『浮世の画家』
「画家」と言うのは小野のことだろう。では、「浮世」とは何なのだろうか。浮世絵のことは勿論、「浮世」には、無常のこの世。儚い世の中。という、意味が含まれている。
要らなくなったもの使い捨て、排除される、無常な世の中。世のため人のために、突き進んで生きてきた道が、他人から見たら間違いだと評価される小野の人生。それでも、その経験は決して無駄ではない。
無情で儚い時代を生き抜く強さを、この作品は伝えたかったのかもしれない。
文:紫吹はる
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