小説 『きみはジュネを抱えて』第三話 我妻許史

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きみはジュネを抱えて 第三話

 ぼくはカミュの『異邦人』を引っぱり出してきた。ページをめくると、しおり替わりにしていたコンサートのチケットが落ちてきた。十年前のフジロックのチケットだった。

 十年という時間はどういう時間なんだろう? 長い時間のような気もするし、成長していない自分のことを考えると、そうでもないような気もする。千春の十年はどんな十年だったんだろう。今もあの場所で小説を書いているのだろうか? 書いているならそれはどんな小説なんだろう。どんな人物が登場して、その登場人物たちはどんなことを話すんだろう。ぼくはそれが知りたいと思った。この状況だからこそ千春の思考に触れてみたいと思った。

 ぼくは千春の家を思い出す。どでかい本棚にびっしり並んだ本と、テーブルの脇に乱雑に積まれた無数の本たち、薄い唇にくわえたフランス産のタバコに、灰皿替わりにしていたインスタントコーヒーの空瓶。千春の部屋の匂いと、千春が話す声の響き。

 ぼくは洗面所で石鹸を泡立てて髭を剃る。伸びた髪の毛は後ろになでつけ、キャップを被る。黒いシャツに着替えて、リュックに『異邦人』を入れる。

 玄関の扉を開けると外は雨上がりの匂いがした。空には見慣れた宇宙があった。ぼくは夏の空気を吸いこんで、ゆっくりと息を吐き出す。そして暗い路上に向かって歩き出した。

 井の頭公園の近くまで来る間に、年齢不詳の男とすれ違った。すれ違う瞬間、唾を飲み込む音が聞こえるんじゃないかと思うぐらい、ぼくと男は息を殺しながら交差した。お互いに相手の緊張感が手に取るようにわかった。ぼくたちは目を合わせず、それぞれの目的地に歩いていった。街は静寂に包まれていた。街全体が追悼を表明しているような暗さだった。コンビニエンスストアやファミリーレストランが閉まっている風景はこの世の終わりを思わせた。清涼飲料水の広告は色あせ、政治家が拳を握りながらマニフェストを掲げる姿は物悲しかった。

 暗い井の頭公園をゆっくり歩いていると、遠くに人の声が聞こえた。ぼくはとっさに茂みのほうに身を隠す。人の声に交じって、野球のノックのような打撃音と、大勢で砂を蹴っているような音が聞こえた。ぼくは不穏な何かを感じ取って、音から遠ざかった。

 記憶を辿って千春の家を探し出したとき、ぼくは別種の緊張に襲われた。腕時計を確認しようとしたけれど、暗すぎて時刻は確認できなかった。首と肘に汗が伝っていくのを感じる。身体からは嫌な匂いがした。

 ぼくは決心して古い扉をノックした。しいんとした空間にぼくが叩いた扉の堅い音が響く。夜のざわめきを肌に感じる。暑さは感じなかったけれど、汗は止まらなかった。ぼくは間違いを犯しているような気がした。ここでぼくは何をやっているんだろう? 扉の奥から物音が聞こえた。物音の主はゆっくりとこちらに近づいてきて扉を開けた。

 そこに立っていたのは、ぼくと同じぐらいか少し上ぐらいの年齢に見える男性だった。髪の毛は伸びていたけれど、髭は綺麗に剃られ、スマートに見えた。男性は何かを推し量るようにぼくを見た。ぼくはうまく言葉が出てこなかった。

「……きみは誰だろう?」

 男性は無表情に言った。

「千春さんの――」

「ああ、千春の友だちか。悪いけど千春はいないんだ」

「そうなんですか」

「ヨーロッパに行ったんだよ。知らなかった?」

 ぼくは首を振って、リュックから『異邦人』を取り出して男性に差し出す。

「長い間、この本を借りたままになってしまって……」

「もしかしてこれを返しに来たの? こんなときに?」

 彼は可笑しそうに笑った。そして、ぼくから本を受け取って「上がっていく?」と言った。

 男性は千春の兄だった。雰囲気は似てないけれど、切れ長な目や薄い唇は千春を思わせるところがあった。

「大変な時代になっちゃったね」

 そう言って千春の兄は、ぼくの目の前のテーブルに缶ビールを置いた。彼はロックグラスにウィスキーを注いで口に含んだ。燻したような香りがフワっと漂う。

 リビングはぼくが一度来たときに比べてガラッと変わっていた。家具や家電が機能的に配置され、シンプルにまとまっていた。

「きみは千春の恋人だったという感じはしないね」

 ええ、まあ。というと、千春の兄はテーブルの缶ビールを指さして、それ飲んでいいよ、と言った。ぼくは礼を言ってビールを飲む。冷えたビールは脳が痺れるぐらいに美味かった。

「千春が急にヨーロッパに行くことになって、俺がここに住むことになったんだ。二年ぐらい前だったかなあ。戦争の始まる前だね。あいつ変わってるでしょ? 急にヨーロッパに行っちゃうんだもんなあ」

「彼女はまだ書いているんですか?」

「書いていると思うよ」

「ということは小説家になれたんですかね?」

「……どうなんだろう? 千春はただ書いていただけなんだと思う。出版とかそういうことはあまり考えてなかったんじゃないかな。まあ、今みたいな状態じゃ出版もなにもあったもんじゃないけどさ。よその戦況次第じゃ日本も参戦なんてことになるかもしれないし。それか、もう参戦しているのかもな。そのための情報統制や外出禁止なんだろう、きっと」

 ぼくは千春の兄に勧められてタバコを吸った。久々の喫煙で脳がくらくらとした。この痺れがぼくはなんとも嬉しかった。彼は、バーにあるような重厚感のある灰皿をぼくと彼の中間にそっと置いた。灰皿変わりに使っていたインスタントコーヒーの瓶はさすがに処分したらしい。

 ぼくは千春の兄が語る、中国がインドに侵攻した、という話や、アメリカが軍事介入してロシアが中国と手を組んだという話をぼんやりと聞いていた。だけど、ぼくたちに「本当のこと」を知ることはできないだろう。

 ぼくは千春の言葉が聞きたかった。千春はカミュの『異邦人』をどういう風に読んだのかが知りたかったし、千春が世界をどういう風に見ているのかが知りたかった。

 ぼくと千春の兄は「これから」のことを話した。すべては推測、希望的観測、どれも現実味の話ばかりで、ぼくたちは力なく笑った。

 話すことがなくなり、ぼくは突然の訪問を詫びて家を後にした。玄関でぼくを見送りながら彼は「自由がないのはつらいよな」と寂しく笑いながら言った。その通り。自由がないのはつらい。だけど、自由が与えられたとしても、ぼくたちは自ら不自由に向かって進んでいるように思えてならなかった。

 ぼくは井の頭公園のベンチに座って、暗闇に浮かぶ池を眺めた。周りに人の気配はなく、葉が揺れるカサカサという音だけが聞こえた。自然は風を吹かせ、その原理で葉を揺らせていた。勝手きままに。多分、理由もなく。

 井の頭公園に住む動物たちはどうしているんだろう? ふと、そんなことが気になった。ぼくは大きく仰け反って空を見上げる。夜空を雲が動いていた。多分、西から東へ。いや、東から西か?

 どうしてぼくは大人なのに世界の成り立ちを知らないんだろう? どうやって今まで生きてきたんだろう? これからぼくはどうやって生きるつもりなんだろう?

 ぼくは立ち上がり、歩き出す。ぬるい風を置き去りにして。後に第三次世界大戦と名付けられるだろう日々の一日が終ろうとしている。

我妻許史

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